彼方から 第二部 第七話
『ほら こっちにも!
ほら……
ほらぁっ!』
『おかあさんっ!!』
母が、心を病み、おかしくなりかけていたのは事実かもしれない。
そんな母が……彼女が放つ言葉も、行動も、向ける視線も、その全てが――子供だったイザークを責め立て、苛ませるものばかり……
――やめろ!
――こんなものを見せるな……
――意識が過去に、取り込まれてしまう……!
いや、分かっていた。
化物が『見せている』訳ではなく、『自分』で、『見てしまっている』のだということは。
思い出したくなくて、ただ抑えていただけに過ぎない記憶……
切欠さえあれば、こうしていつでも蘇り、苦しめられる――苦々しい想いが溢れてくる。
『父親の方はいつも怯えて
息子から逃げているらしい』
母だけではない、父からも避けられていた。
そう、避けられていたのだ……まともに、向かい合ったことなどあっただろうか……
『おとうさん
ぼくは家を出ていく
このままでは
おかあさんがダメになるから』
『だめだ……
出て行ってはだめだ』
『おまえを育てているからこそ
おれ達は繁栄できる
そういう約束だったんだから』
『巨大な
魔の力を持つ子供
この世に現れた
魔の化身』
『この世を
その力で震撼させる
天上鬼となるまで
育てる約束を
おれ達はしたんだから』
手を震わせ、恐れ、怯えながら、父親は顔に触れてきた。
それは、愛情の籠ったものではなく、ただ、出て行かせないためのもの……
約束のため、自分たちのため――繁栄のため……
ただ、それだけのために……
*************
「おかしいぞ」
霧の中、バラゴが不安げに辺りを見回している。
「この足下の感触……それにさっきから、木や葉っぱばかりにぶつかっている」
「じゃあ、やはり森の中に入っちまったのかい」
ノリコを囲んで周囲を警戒しながら、バラゴの言葉にガーヤが返している。
「化物から逃げてるうちに、いつの間にかアゴル達と引き離されているんだ」
「やばいね、なんとか集落に戻らないと」
こんな状況下に措いても、なんとか冷静さを保っている面々。
バーナダムの一件があるからだろうか、落ち着きを失わないよう、自ら気を付けているのだろう。
――なんて霧だろ
――どんどん濃くなっていく
足下はおろか、右も左も、前も後ろも、碌に見えはしない。
数歩離れただけで、いとも容易く見失ってしまうほど、立ち込めた霧は深く、濃かった。
「ノリコ、手を離すんじゃないよ。この霧だ、一歩離れたら、見えなくなっちまう」
「あ、うん」
そんな彼女の懸念を察したのか、ガーヤがすぐに、手を差し伸べてくれる。
ノリコはすぐ目の前に見える、ガーヤの手を取ろうと手を伸ばした。
「きゃあっ!」
「ノリコッ!?」
だが、彼女の手は、ガーヤの手を掴むことが出来なかった。
即座に、ノリコの手を掴み直そうと一歩、足を踏み出した時だった。
「うわっ!」
まるで階段を踏み外したかのように、足が地面を滑ってゆく。
「坂だ! 坂になってるんだ、ここ……!!」
濃い霧のせいで、自分たちのいる場所が一体どういう地形になっているのか、それすらも分からない。
「きゃああああっ!!」
ノリコの悲鳴が響く。
地面を滑り落ちてゆく音と共に。
彼女の姿は、見通すことを許さない濃い霧のせいで、ガーヤたちの視界から瞬く間に消えていった。
*************
「エイジュッ! 無茶はするなっ!!」
一人、霧を纏った槍と共に化物に向かってゆく彼女の背に、アゴルはそう叫んでいた。
――そうは、行かないのよ……!
それが、自分の役割なのだから。
イザークとノリコ、そして、二人の仲間となるため集まった光たち。
彼らを護るのが、『あちら側』から課せられている役割……
全力を出せる状態ならば、何の問題も在りはしない。
だが、意図的に出せる能力を抑えられている今の状態では、かなり無理をしなければ、目の前の化物を倒し得ることは出来ない。
限界ぎりぎりまで、能力を使うしかないのだ。
だが……
「――ッ!?」
エイジュが動きを止めた。
「……なんだ?」
彼女の周りに浮遊していた氷の槍が消えるのを見て、アゴルが怪訝そうに呟く。
その彼女の姿が、ほんの少し前に居るだけのエイジュの姿が、瞬く内に霞んでゆく。
屋根の上に陣取ったままの化物の姿も、見えなくなってゆく。
「霧よっ! 霧が出てきたのよっ!!」
「なっ……霧って、しかし、こんな――」
こちらに戻って来ようとしているエイジュの姿が、すぐに確認できなくなる。
「エイジュッ!?」
「あたしはここよ!」
アゴルの呼びかけに応えるエイジュの声は、確かに近くから聴こえてくる。
「なんだ! この霧っ!!」
少し遠くの方で、バーナダムの声も聞こえる。
「あぁっ!?」
「――ッ!! エイジュッ、どうした! エイジュッ!!」
何かが空を切る音と同時に、エイジュの悲鳴が上がった。
かなり離れた場所から、何かが地面に落ちる音がする。
「エイジュッ!?」
もう一度、アゴルはその名を叫ぶように呼んだ。
「……大丈夫、大丈夫よ! でも、こっちに来ないで! 奴は、この霧に乗じて、あたしを殺すつもりらしいから! とばっちりを食うわよ!」
彼女の言葉通りなのだろう――声のした方で、何かが木に当たる音や空を切る音、斬撃の音が聞こえてくる。
「しかしっ……!」
助けに行こうにも、戦いの音は常に移動していて、見当がつけられない。
「……あたしに……構わないで! あなたも……火を作る方に回って!」
移動してゆく戦闘音と共に、エイジュの声も移動し、小さくなってゆく。
「…………くっ」
追うことなどできない。
ジーナがいる、この子を――娘を護らなければならない。
仮に追えたとしても、エイジュよりもまともに、この濃い霧の中、化物と戦える訳もなかった。
*************
『ウソだ!
ぼくはそんなものじゃないっ!!』
過去の記憶が、イザークを取り込んでゆく。
それに呼応するように、化物の触手が彼の体にきつく強固に、巻き付いてゆく。
『あいつには近寄るな』
他人の眼が痛かった。
『いつか化物になるのよ』
『魔物と契約したんだ』
耳にしたくない父と母の言葉。
『体が辛いよ
誰か助けて……
どうしてみんな
ぼくから遠ざかるの?』
意味も、理由も分からず、ただ、涙するしかなかった日々。
待っても、求めても、必要とする『手』は差し伸べられない……
思い返される苦しみと一緒に、触手は更に強く、イザークの体を軋ませ、巻き付いてゆく。
『きゃああああ! 血がぁ!』
血に染まった服、血の滴る母の手の平……
『いやよ もういや こわい』
作品名:彼方から 第二部 第七話 作家名:自分らしく