楽しい羊一家 その1
孫弟子からの反論を受けたシオンは目を閉じたまま、だるそうな口調で、
「音だけ聞いておるのだ」
「えー」
納得できないといった様子で貴鬼が声を上げるが、シオンはそれを完全に無視し、テレキネシスでリモコンを自分のクッションの下に放り込むと、ごろんと仰向けになった。
そして、10秒経たぬうちに聞こえてくる、安らかな寝息。
「んもー!!!シオン様、しっかり寝ちゃってるじゃないですかー!!」
大声を上げようが、シオンが目覚める気配は全くない。
「どうしました、貴鬼」
居間での騒ぎを訝しく思ったのであろう。
明日の食事の下準備を終えたムウが、台所と居間を仕切っているロールカーテンを上げて顔を出す。
「夜ですので、あまり騒ぐのではありません……と、おや」
ソファの上で寝こける師の姿を目の当たりにし、瞬きする。
厳格で知られる聖域の教皇が、ここまで無防備な姿をさらして眠るのは非常に珍しい。
「おやおや、シオン様も仕方ないですねぇ」
苦笑いしつつ、居間の灯りを豆電球にするムウ。
勿論、テレビはそのままである。
急に部屋の灯りを落とされた貴鬼は、それが疑問というか不満だったようで、
「ねぇ、ムウ様ー。どうしてシオン様、ぐっすり眠っているのに、テレビつけっぱなしなんですか。オイラが同じ事やると、怒るくせにー!」
貴鬼もテレビを付けたままうたた寝してしまい、その度にムウから、
「テレビをきちんと消しなさい」
と叱られているのだ。
そんな貴鬼が、シオンやムウの行動に納得できないものを感じるのも当然であった。
けれどもムウは、小さく貴鬼の頭を小突いただけで何も言わない。
「ムウ様」
「貴鬼、寝室から毛布を持ってきなさい」
「……はぁい」
師に命令されれば、やらないわけにはいかない。
渋々寝室に毛布を取りにいく。
「今日はシオン様は、このまま起きないでしょうからねぇ」
居間のロールカーテンを床まで降ろし、台所と居間を完全に仕切る。
そのカーテンの向こうでは今でも映画の続きが放送されていて、貴鬼はそれが面白くなかった。
「ねぇ、ムウ様」
ダイニングテーブルに腰掛け、敬愛する師匠を見上げる。
ムウはガステーブルに薬缶をかけている最中であった。
料理台の上にカモミールティーの缶やティーポットが置いてあるので、就寝前のお茶の支度をしているのかもしれない。
「なんでシオン様は、テレビつけっぱなしでもOKなんですか」
そう訊ねる貴鬼の物言いは、子供が拗ねている口調そのものである。
それもそうだろう。
シオンならよくて自分はダメだというのは、どうにも納得がいかない。
するとムウは、怒るでも呆れるでもなく、
「お前は自分とシオン様が同等と思っているのですか?」
「そうじゃないですけど……」
口ごもる貴鬼。
それを言われてしまうと、貴鬼に反論する術はない。
「まぁ、これは大人の屁理屈ですね。子供がやって悪い事を、大人がやっていいという理由にはなりません」
一応ムウも、その辺は理解しているらしい。
「じゃぁ、なんでシオン様はいいんですか」
再び問う弟子に、ムウはほんの少し、ほんの少しだけ、痛みを堪えたような表情を見せた。
それは、鈍感な人間や、ムウとさほど付き合いのない人間なら、気付かない程度の変化だったが。
「シオン様が教皇になりたての頃、ほぼ一人で聖域で寝起きしていたという話を、お前にはしましたか?」
「……いえ」
いや、もしかしたらしてもらったかもしれないが、貴鬼ははっきりとは憶えていない。
ムウはその弟子の答えを聞くと、話を続けた。
「夜眠る時、シオン様は怖かったそうです。生き残り、教皇の位を拝命したのはいいものも、仲間は遠い空の下にいる老師を除いては、全て戦いで散ってしまっている。たった一人生き残る事がこんなに寂しいものだと、夜の闇と静寂がこんなに怖いものだと、教皇になってからシオン様は知ったそうです」
老師の話によると、前の聖戦ではシオンと老師しか生き残らなかったらしい。
その老師は五老峰でハーデス軍の魔星を監視する使命を与えられていたので、結局聖域で過ごすのはシオン一人になってしまう。
ガステーブルの上の薬缶から、シュッシュと湯気があがる。ムウは火を止めると、茶器の準備を始めた。
気楽に飲みたいので、ティーカップではなくマグカップを温める。
お茶の支度をしながらムウは、シオンが幼い頃の自分に語ってくれた話を思い出す。
幼少期のムウはジャミールでの修行中、シオンと同じ寝台で眠った。
ジャミールの館にはベッドが一つしかなかったのと、高山特有の寒さを共に眠る事で和らげるためだ。
枕の上にうつ伏せになったムウは、毎夜師が語る物語を夢中になって聞いた。
そんなある日、シオンがムウの体に毛布をかけつつ、こんな話を始めた。
『私が教皇職を拝命した頃か。夜、寝台で眠ろうとしても、静か過ぎて眠りに就けぬのだ』
聖戦が終わり、聖域で次の世代を育成する使命を背負ったシオン。
日中は聖闘士の育成、夜は聖衣の修復と聖域の有職故実を学ぶ時間に充てられた。
そのため、肉体も精神も疲れ切っているはずなのに。
教皇の間の寝室で横たわると、闇の深さ、夜の静けさが気になって、妙に目が冴えてしまうのである。
(現在、教皇の間の寝室は改装されて、仮眠室になっている)
寝室を出ると、紅い絨毯が敷かれた教皇の間の謁見場。
聖戦前であれば、雑兵の一人や二人が待機していたのだが、今の聖域にはそのような余力はない。
石造りのそこは、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
完全なる無音。
完全なる孤独。
人の気配が全くない世界。
これまで多くの仲間たちと過ごしてきた十八歳のシオンには、その孤独は寂しすぎた。
幼い頃は、一人で修行を積んだ事もあった。
けれども、何か異常があれば、すぐに師が駆けつけてくれた。
その師も、過日の聖戦で落命した。
今、シオンは、たった一人だった……。
この広い十二宮に、たった、たった一人だった……。
『おかげで私は、人の気配がないと怖くてたまらぬのだ。聖戦が終わった頃は、私一人が取り残される夢をよく見たものよ。その夢は、現実の投影に過ぎぬのだがな』
幼いムウにそっと腕を伸ばし、引き寄せる。
年老いた痩躯に抱きしめられ、ムウはくすぐったそうに首をすくめる。
『お前に出会えて、よかった。私はもう一人ではあらぬと、230年近くの年月を過ごした後、ようやく感じられるのだからな』
眠りに就く前、誰かが側にいる。
目が覚めると、誰かが側にいる。
本当の意味での『独り』を体験したシオンにとって、ムウの存在がどれだけ救いであったか。
想像に難くない。
「……なのでシオン様は、少しでも人の気配があった方が安心できるのですよ」
テレビはただの音と映像を流す箱かもしれない。
だがシオンには孤独を連想させる静寂を打ち消してくれる、魔法の箱だった。
「シオン様はお前と一緒にいる時にウトウトなさる事が多いでしょう」
「そういえば、そうですね」
「それは、シオン様がお前の気配を感じて、安心なさっているからですよ」
「!」
その言葉に目を見開く貴鬼。
それは知らなかった、気付かなかった。
作品名:楽しい羊一家 その1 作家名:あまみ