振り返れば奴がいる 後編
☆瞬のクラス。教科は国語
瞬のクラスは国語である。現代文ではなく、古文の授業を行う。
「今日は授業参観なので後ろに保護者の方がいらっしゃっているけど、いつも通りに授業を受けてね」
国語担当の女性教師が、いつもよりちょっと固い声で話す。今日の参観で一番緊張しているのは、彼女かも知れない。
教科書をめくりながら、瞬はこんなことを考える。
いや、それは正確ではない。
この教室の中で一番緊張しているのは。
『僕かな』
背後に師の視線を感じつつ、そう思う。
しかし、その視線は不快ではない。
むしろ、師の温かい小宇宙を感じることができて、心強かった。
修業時代、厳しくも優しい師に教えを受けた事を思い出し、瞬の胸を懐かしさが過る。
あの頃は、ジュネさんがいて、みんながいて……。
死と隣合わせの毎日だったけど、でも、不思議と幸せだった。
自分をいつも気にかけてくれたダイダロスの教えを受けることができて、幸せだった。
「……くん、瞬くん」
ふと、鼓膜を震わせる声。
名を呼ばれていると気付くまでに、少々時間がかかった。
「瞬くん?」
名を呼ばれること三度。
隣の席の男子が、意識が少し飛んでいる瞬を軽く突っついた。
「おい、瞬。呼ばれているぞ」
「え!?はい!!」
慌てて椅子を鳴らして立ち上がる。
らしくない瞬の姿に教師は苦笑しながら、
「瞬くんどうしちゃったの?ぼぉっとするなんて、滅多にないでしょう」
瞬も苦笑いしながら、
「ぼ、僕も緊張しちゃって……」
「あら」
微笑ましいと言わんばかりの教室の雰囲気。
その空気感からダイダロスは、瞬がこのクラスの人間から愛されていることを知った。
『皆に愛されているのだな、瞬よ』
瞬は心の清い、優しい少年だ。彼と接した人間は皆、彼を好きになる。
それは、瞬を長年指導してきた自分が、誰よりもよく理解していることではないか。
「じゃぁ、瞬くん。教科書の109ページを始めから読んで」
「はい」
瞬は教科書をつかむと、指定された箇所の音読を始める。
「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる……」
甘いが張りのある瞬の声が、教室内に響く。
彼が読んでいるのは『枕草子』の最も有名な一節。
ダイダロスは日本語がわからない。けれども、瞬の読むその文章の響きは、気に入った。
「……いい響きだな」
母国語のスペイン語で呟く。
共に参観していた父兄たちは、日本人顔のダイダロスからこぼれた外国語の響きに、刹那驚いたような視線を向けた。
一体、誰の身内だろうか。
「エクスキューズミー、キャンユースピークイングリッシュ?」
英語のできる保護者が、小声でダイダロスに話しかける。
するとダイダロスはシュラによく似た顔を顰めると、
「今は授業中だ。保護者がおしゃべりをしてどうする」
と、ややスペイン語訛りのある英語で一喝した。
話しかけた保護者は、ソーリーと一言詫びると、自分の子供の様子を注視する。
『随分と立派な親御さんだな。授業終わったら、もう一度話しかけてみるか』
そう考えたこの保護者。よもや知るまい。
今会話を交わしたこの外国人は、まだ19歳の未成年だということを。
自分の子供らより少々大きいだけだと。
「立派になったな、瞬」
思わず目頭を押さえるダイダロス。
その姿は、瞬の父親と言っても全く違和感がなかった。
作品名:振り返れば奴がいる 後編 作家名:あまみ