振り返れば奴がいる 後編
☆邪武のクラス。教科は数学
どうして参観になると、先生はごちゃごちゃ道具を持ってくるのだろうな。
黒板にぺたぺた貼られたカードやシートを眺めながら、邪武は口の中で独語した。
今日の授業は図形の証明問題。
普段は黒板にチョークで書き込む数式を、教師はいくつものカードを黒板に貼って説明していく。
「……と、こうなるわけだ。それでは問題集の例題を一緒に解いていくから、ページを開け」
ざっ……と紙のめくれる音がする。
教室内の人間が一斉に問題集とノートを開いた音だ。
邪武も皆と同じように、ノートと教科書を開く。意外なことに、邪武のノートは優等生のそれだった。
『将来はグラード財団に入って、聖闘士としてだけではなく、財団の職員としてでもお嬢様を支える』
それが今の邪武の夢なのである。そのため彼は、懸命に学問に励んでいるのであった。
近い将来、聖闘士ではなくても、沙織の手助けをできるように。
腕力だけでなく知力でも、沙織を守れるように。
この夢を星矢達に話した時、星矢と瞬は顔を見合わせた。どういう反応をしていいのか分からない様子であった。
『……なんだよ、お前ら。そのビミョーな反応』
顔を歪ませて邪武が訊ねると、瞬は怖ず怖ずと、
『沙織さんの付き人になりたいってこと?』
『ああ。護衛も秘書も兼ねられるような、な!』
再び顔を見合わせる二人。
話していいかどうか、迷っているような雰囲気である。
『……だからお前ら、その微妙な反応はなんだよ!!』
『……あのね、邪武』
ものすごく話し辛そうに、瞬がゆっくりと切り出す。
『今はアフロディーテがそれやってるんだ。本人はあまりやりたくないみたいだけど』
アフロディーテ。魚座の黄金聖闘士にして、聖闘士随一の美貌を持つ男。
その男が沙織の付き人をつとめているだなんて!!
邪武はアフロディーテの白薔薇を心臓に受けたような気分になった。
いや、実際に食らった人間を目の前にしてその表現はどうだろうと思うが、それ以外に喩えようがなかった。
『……お、お嬢様は面食いなのか!?』
つい涙声になってしまうユニコーンの聖闘士。星矢はまぁまぁ落ち着けよと邪武をなだめると、
『まぁ、あの顔だから、社交界とかに行くと大人気らしいんだけど……あの人が一番重宝されてるのは、何か国語も話せるところなんだよ』
『………………』
黙り込む邪武。そんなの初耳だ。
瞬は指折り数えながら、
『えっと、ギリシャ語、スウェーデン語、英語、フランス語、イタリア語が話せるって聞いたよ』
これだけ話せれば、どこの国に行ってもさほど困らない。なるほど、お付きにはうってつけの人物である。
『黄金聖闘士だから、ボディガードとしても超一流だしね。本人はもう辞めたがってるみたいだけど……』
瞬がフォローするように告げるが、邪武のエクトプラムズ放出を止めることはできなかった。
星矢と瞬はまさか、こんなに邪武が落ち込むとは思わなかった。
付き人としてのアフロディーテのスペックは高過ぎる。
邪武から魂が抜けるのも、無理はない。
『でもよ、邪武。アフロディーテは付き人の仕事、あんまり好きじゃないんだってさ』
『……なんで、お前らがそんなこと知ってんだよ』
上目遣いで睨みつける邪武。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
星矢は、ああ、と小さく頷いた後、
『ムウに聞いたんだよ。アフロディーテはムウん家でだべってお茶することが多いから、結構話すらしいぜ』
これは本当の話。
アフロディーテは沙織の護衛のため、毎年毎年クリスマスやニューイヤーの休暇がずれ込んでしまう。
それが彼は、大変に嫌らしいのだ。
ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを毎年タダで楽しめるという利点はあるが、最近は指揮者も昔に比べて小粒になった印象があるので、テレビ鑑賞でも構わないとアフロディーテは思っているそうだ。
『だからさぁ、お前が猛勉強して、外見や聖闘士としてのスペックはともかく、中身だけでも高スペックになれば、アフロディーテから付き人の仕事を譲ってもらえるんじゃないか?アフロディーテはあの仕事パスしたがってるから、渡りに船って感じで身を引いてくれると思うぜ?』
『そうだよ、邪武!頑張ろうよ!』
瞬も胸の前で両手を握り拳にし、励ます。
『諦めたら試合終了って、安西先生も言ってるよ!』
『そうか、そうだよな!』
厚い雲の間から、薄日が射したような邪武の顔。
それを見て、ようやくほっと息を吐く二人。取り敢えず、邪武の夢を完全に潰さすに済んだ。
『よし、俺はやるぞ!頭だけでもアフロディーテを超えてみせる!!』
……こういう理由で邪武は熱心に勉強し、今では意外なことだが……学年トップクラスの成績を修めていたりする。
「邪武、この問題解いてみろ」
教師から指名を受けた邪武は、つかつかと黒板の前に歩み寄ると、スラスラと例題を解き始めた。
お嬢様の将来の右腕たるもの、この程度の問題で躓いているわけにはいかない。
「できました」
チョークを起き、席に戻る邪武。
この時、後ろにいた辰巳と目が合った。
辰巳は『やったな』と言わんばかりにサムズアップしてみせる。
邪武もニヤッと口元を歪めると、辰巳と同じように親指を立てて返す。
勿論、邪武の解答は、正解だった。
作品名:振り返れば奴がいる 後編 作家名:あまみ