彼方から 第二部 第八話
もしも、これ以上何かが起こって、彼が力を使わざるを得ない状況に陥ったとしたら……
彼の身に何が起こるか、エイジュは容易に想像することができた。
――そうなったら……『あちら側』は、どう判断するのかしら……ね
前を行く二人の背中を見やり、エイジュは無意識に、胸に指先を当てていた。
どのくらい歩いただろうか。
「おい! あれを! 出口だ!!」
コーリキたちが思わず大声でそう言いながら、指を差している。
「いやったぁ!!」
「あそこを越せば、ついにグゼナだ!!」
森を抜け出たのだ。
それまで、鬱蒼と生えていた木々が突然切れ、渓谷のように、両脇に切り立つ崖が姿を現していた。
誰もが隣国への道に出たことに沸き立っていた。
「ここを進めば、国境に通じるトンネルがあるはずだよ」
ガーヤがホッとしたようにそう言ってくる。
道案内してくれる者たちがいたとはいえ、実際に辿り着くまでは、不安が少々拭えなかったとしても、致し方ないことだろう。
ガーヤの言葉に、皆は口々に『もう少しだな』『もうひと踏ん張りだ』などと言い合いながら、進んでゆく。
やがて、彼女の言う通り、トンネルが見えてきた。
「トンネルって言っても、天井は隙間だらけだな」
「まぁ、ちょっと薄暗いけど、灯りもいらないし、道も平坦だし……」
ロンタルナとコーリキが呑気にそんなことを言っている。
だが、彼らの言う通り、国境へと通じているこのトンネルは天井が高く、恐らく、風雨に削られてできたと思われる隙間というか、穴が、点在していた。
トンネルと言えば、光の差し込まない真っ暗な中を進むものだと、相場は決まっている。
距離が短ければ、出入り口から差し込む陽の光で灯りは賄えるかもしれないが、距離が長ければそうはいかない。
松明の準備がどうしても必要となるだろう。
故に、このようなトンネルは珍しく、皆はまるで観光でもするかのように歩きながら中を見回していた。
恐らく、白霧の森が魔の森と呼ばれる前は、グゼナへの街道としてきっと、人の手に依って整備されたりしたのであろう。
道が平坦なのが、何よりの証しである。
「ノリコ、疲れないかい?」
「うん」
森を抜けた辺りで、道は比較的歩き易くなり、何より、平坦になっている。
ノリコはイザークに頼んで、その背中から降ろしてもらっていた。
「ここまで来た、嬉しいから、自分の足で、国境越えたい」
心配してくれるガーヤに、ノリコは笑顔でそう応えていた。
この時、経験と鍛錬を積んでいるとはいえ、皆の中に油断が無かったかと言えば……それは嘘になるだろう。
難所と言われていた森を抜け出られたことで、あれほどの戦いを潜り抜けたことで、もう、これ以上危険なことなど起きはしないだろう……そんな、楽観的な考えが、皆の中に在ったことは否めない。
ただ――二人を除いて……
――まだ、油断はできない
――そんな気がする……なんだろう、この胸騒ぎは
ざわざわと忍び寄る得体の知れない不安感に、イザークは警戒を解けずにいた。
――何かしら……
――力を抑えられているせいで、この嫌悪感を生じさせている大元が、特定できない……
それは、エイジュも同じだった。
自身の感覚が微かに発する警告を、感じ取りはしているものの、『何に対する警告』なのか、量り切れずにいる。
気にし過ぎていると言われてしまえば、それまでのような、本当に微かな警告。
二人は『胸騒ぎ』と『警告』を胸の内に秘めたまま、歩を進めていた。
トンネルを抜けるころには、もう大分、陽が傾き始めていた。
「う……わ」
西の空に見える太陽が、皆の影を長く伸ばしてゆく。
トンネルの中にも斜めに、陽が射し込んでいる。
その出口から見える景色に、皆は思わず足を止め、見入っていた。
「これが、国境?」
思わず、そう呟くコーリキに同意するように、皆、眼前に広がる景色を見渡していた。
切り立つ大きな岩石が行く手を阻み、その岩石に沿うようにして、一本の細い、崖から切り出したような道がその先へと……グゼナへと向かっていた。
大きな岩石は今にも崩れ落ちそうなバランスで立っており、隙間に無理矢理生えている低木が、それを支えているようにも見える。
恐らく、何十年も、何百年も昔からそこに在るのだろうから、人が通ったぐらいで倒れてくることなどありえないと、頭では分かっているが――覆い被さるような圧迫感に、恐怖を感じずにいることは出来ない。
グゼナへと至る道も細く、十数年は整備などされていないだろうし、人だって通ってはいないだろう。
馬車が一台、やっと通れるほどの道幅と、道の端に見える罅や裂け目に、どうしても心許無さを感じてしまう。
「まいったな……もう危険はないと思っていたのだが……」
ジェイダの口から、皆に中にもあったであろう安堵の思いが、零れ出てくる。
道は歪で曲りくねっていて、これからの先行きを、暗示しているかのようだ。
「きっとこれが最後の難所です、頑張りましょう」
バーナダムの言葉に、皆に再び、緊張が戻ってくる。
「みんな、気を付けて渡りなよ、ゆっくりでいいからさ」
ガーヤが年長者らしく、皆を見回し、優しく注意喚起をしてくる。
人が二人並んで通れるほどの幅の余裕はある。
だが、少しでも何かがあってバランスを崩そうものなら――例えば、躓いて転ぼうものなら……
――うわー……断崖絶壁だ
――こわーい……
その断崖絶壁の底へと、落ちてしまうだろう。
恐々と下を覗き見るノリコの腕を掴み、イザークは自分の近くへと引き戻した。
「おれにしっかり、掴っていろ」
「あ……う、うんっ」
しっかりと前方を見据えるイザークを見上げ、ノリコは彼の言葉通りに、その右腕にしっかりと掴った。
――おれの、さっきからの胸騒ぎは、この場所のことなのでは……?
確かに、道は緊張感を失くして歩けるほど、易しくはない。
だがそれでも、『通れない』わけではないのだ……
そう感じる自分の感覚を、イザークは訝しく思う。
――……違う
最後尾を歩きながら、エイジュはそう感じていた。
こんな道が、嫌悪感の大元であるはずがないと。
これが、今にも朽ち果てようとしている吊り橋というのなら、まだ、分かる……
だが、断崖絶壁に設えられているとはいえ、過去には人通りもそれなりに在った、『道』なのだ。
――まだ、何かある……きっと……
いつまでも消えない嫌悪感と微かな警告。
エイジュは少し眉を曇らせ、胸に指先を当てていた。
「なぁんだ、何事もなかったな」
一人、また一人と、最後にエイジュが渡り終え、皆が安堵の表情を浮かべていた。
ロンタルナが安堵し切ったような笑みを浮かべ、皆を見回しながらそう言ってくる。
エイジュも一応、その笑みに応えはするが、どうしても懸念が消えない――訝し気に後ろを見やっていた。
――確かに……何も、無かったけれど……何も……
何事かが起きて欲しいと、そう思っているわけではない。
何事もなく、平和に終わるのが一番だと分かっている。
作品名:彼方から 第二部 第八話 作家名:自分らしく