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自分らしく
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彼方から 第二部 最終話

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「大丈夫? どうしたの?」
 ノリコは彼の状態を確かめるようにそう訊ね、体を抱えこんでいるその手に、触れた。

 ハッとした…… 
 一瞬、彼の手に触れた指の動きが、止まる。
「手が……」
 無意識にそう、呟いていた。



「――ッ!!」
 反射的に、手を、体を、引いていた。
 弾かれるように彼女から離れた、見せたくなくて――見られたくなくて……
 荒く、整わない呼吸のまま、思わず彼女を見てしまっていた。
 本当は見たくないのに――それなのに、ノリコがどんな眼で、どんな表情で自分を見ているのか……知りたくなどないのに確かめてしまう。
 見合っていたのは、僅かな時間……
 ノリコの瞳に現れていた色は、驚きと……恐らく、戸惑い……
「そこにいろ…………様子を見てくる」
 その場を誤魔化すようにそれだけ言って、イザークは踵を返した。

 ――大丈夫だ
 ――まだ、大丈夫だ
 
 倒れた大岩鳥に向かい、歩きながら小刻み振るえる体を抑えようとする。
 しかし、自身にそう言い聞かせなければならない程、体内に眠る力が表面に出てこようと蠢いているのが分かる。
 確かに、まだ、決定的な変容は起きてはいない。
 決定的な……

 ――元に戻れ
 ――元に……

 そう、今の内に……
 まだ、決定的な変容が起きない内に……
 彼女に、ノリコに『それ』を、見られてしまわない内に……
 今ならまだ、大丈夫なはずだ……
 こちらが何も言わなければ、恐らく、ノリコからは何も言ってこない……多分、恐らく――。
 そのまま、何事もなかったように平然と、いつものように、過ごせばいい。
 それで良いはずだ――それで……

 イザークは気づいているだろうか……その『想い』はほぼ、『願い』に近いものだということを……
 どうして彼女に、ノリコに対して、そう『想う』のかに……



 ――イザークの瞳の形が……口に、牙が……
 僅かな時間、見合っていたのは本当に僅かな時間だった。

 ――時々、変だと思ったことあるけど
 ――この明るさで、間近に見たのは初めてだ
 何度か――二人だけの旅の途中で何度か、見た記憶がある。
 彼の瞳の色が、形が、変わっているのを……口元から、牙が覗いているのを……
 でも、いつも夕闇の中や月明かりの下だった。
 はっきりと、確かめることの出来ないくらいの明るさの中で、それも、本当に一瞬だったり、遠目だったり……
 今なら分かる。
 きっと、多分、イザークは見せたくなかったんだ……見られたくなかったんだと。
 最初の頃、彼と初めて会った頃は分からなかった……けれど、今は知っている。
それが、『普通の人間』ではあり得ないことだと。
 この世界の人も、自分が元居た世界と同じで、ほとんどの人が能力を持たない『普通の人間』なんだということを。

 彼が――イザークが……『特別』なのだということを……

 悲しみとも、寂しさとも言えない感情が込み上げてくる。
 弾かれたように身を引いた彼と、僅かに見合っていたあの刹那、見て取れてしまった……彼の瞳の色を――その瞳に浮かぶ、恐れ……あるいは、怯え……そんな色を。
 どうして彼が、彼ほどの力を持った人が、あんなに強い人が……人の痛みが解かる、優しい人が……他人に対してそんな感情を持たねばならないのだろう――しかも、あたしみたいな何の力もない人間にまで……
 きっと、そうならざるを得なかった生い立ちだったんだとノリコは思う……
 この世界も、『異なる者』は受け入れてもらえない……のだと。

――でも

 ――でもイザーク、あたしは……

 けれど、それは言葉にならない感情……
 口にしては、いけないのだと――そう、思ってしまっている感情だった。
 動かなくなってしまった大岩鳥に歩み寄ってゆく彼の背中を、ノリコはじっと、見詰めていた。

 背後の崖から、小さな土塊や石が転がり落ちてくる。
 カラカラと乾いた音を立てて、石ころは、ノリコの足下へと幾つも、落ちてきていた。



 ――支障はなさそうだ
 ――気絶しているだけか……

 大岩鳥の体に触れ、その体温と心音を確かめるイザーク。
 温かい体と確かな心音に、ホッと息を吐いた。

 ――やがて、陽が落ちる
 ――夜になれば、この鳥も目が利かなくなるはず……

 その推測に、間違いはない。
 だが、彼はここで気付くべきだった。
 先刻まで確かに感じていた気配が、『鳥』から、感じられなくなっていることに……
 ノリコから離れてしまったことに。
 彼女を、『一人』にしてしまったことに……

「きゃあああっ!」

 ――ッ!!

 ノリコの叫び声。
 振り向くイザークの眼に入ってきたのは、音を立てて崩れてくる崖の壁面……大小、様々な大きさの石や土塊が、彼女を襲う様だった。

 ――ノリコッ!!

 眼前の崖、その壁面に、大きく張り付くようにして浮かぶ黒い影が見える。
 とてつもない大きさの岩が、崖の壁面から、今にも剥がれ落ちようとしている。

      “ ク……ク ”

           “ ソノ鳥ニハ モウ我ハイナイ ”

    “ 寸前ニ 飛ビ出シテ 岸壁ト 同化シタ ”

「イザークゥッ!!」
 背後から襲い来る石の礫に、ノリコは堪らず倒れこんでゆく。
 肩に、背中に、足に……激しい痛みが奔る。
「いたっーー!!」
 更なる追い打ちを掛けるように、岸壁から剥がれ落ちようとする大岩から流れ出た大量の土砂が、ノリコに覆い被さってゆく。

 ――石が、土が乗っかって動けないっ!!

 体の下半分、土砂で埋め尽くされてしまった。
 痛みと重さで微動だにしない体は、もう、自分の物ではないようだった。

   “ 男ハ 手強イ ガ ”
  
       “ 女ハ 無力 ダ ”

    “ コチラヲ 先ニ ツブシテヤル ”

 ――しまった!!

 絶え絶えの魔物の意識が、何故か聴こえてくる。
 先刻のように、操られているものに、触れているわけでもないのに……
 全てがゆっくりと動いてゆく。
 岸壁から剥がれてゆく大岩。
 零れ落ち、ノリコに降りかかる岩や土砂。
 踵を返し、ノリコに走り寄る自分の動きまで、ゆっくりと感じられる。
 もどかしい……すぐ傍に見えているのに。

   “ ク……ク ”

       “ 来ルカ 男 ”

「やめろーーっ!!!」
 怖かった……
 これ以上の恐怖はなかった。
 体内の臓腑が全て、握り潰されるかのような感覚さえ覚える。
 眼の前に繰り広げられる光景に、声の限りに叫んでいた。

    “ 共ニ 岩ノ 下敷キト ナルカ ”
 
 魔物が同化した大岩と彼女までの距離は、いくらもないように見える。
 間に合わなければ、下敷きとなるのは……ノリコ……
 間に合っても、あの岩を何とかできなければ、魔物の言葉通りに――いや、違う。
 それでも、下敷きとなるのは、潰されてしまうのは彼女だけ……ノリコだけだ。
 僅かな衝撃でも傷ついてしまう、普通の『人間』の女の子のノリコだけ……
 助かるのは……『助かってしまう』のは、『自分』だけ……
 想像すらしたくなかった。

 ――そんなこと