彼方から ― 幕間 ―
彼女の声が、言葉が、射し込む光のように甦る。
全身から、余計な力が抜けてゆく。
「……ノリコ……」
どうしてあいつは、そんな言葉をおれにくれたのか……
あんな、醜い姿を晒した、このおれに。
誰にも見られたくなかった姿……ノリコには一番、見せたくなかった。
あの姿を眼にすれば誰もが――ノリコもきっと、おれから離れてゆく……それが、恐かった。
なのに――――
痛みで儘ならない体を引き摺って。
必死におれの手を取って、体を寄せて、泣きながら……
―― どんな姿でも ――
―― 何者でもいい ――
ずっと、欲しいと願っていた言葉を、ノリコはおれにくれた……
真っ直ぐに、おれを見詰めて……
口づけまで――
彼女の柔らかい唇の感触を思い返すかのように、イザークはそっと、自分の唇を指先で擦っていた。
少しの間、触れあっただけの口づけだったが、思い返すだけでも胸が熱くなってくる。
イザークは、少し火照る体を冷ますかのように、再び歩き始めた。
――悪いことを、してしまったな……
右手の中に在る薬草が眼に入り、イザークはまた、物思いに耽る。
彼女が――ノリコが口づけをくれた後、気を失ってしまった、その後を……
*************
意識を失い、倒れてゆく彼女の体を、イザークは優しく、受け止めていた。
体の変容はいつの間にか収まり、既に元に戻っていた。
彼女がくれた言葉、その行為がすぐには信じられず、腕の中で眠るその顔に見入ってしまう。
「……う――」
微かに呻き、眉を顰めるノリコ。
イザークはハッとして、慌てて辺りを見回した。
――呆けている場合ではないっ!
崖のすぐ傍に落ちている自分たちの荷物を見つけると、そっと、恐らく、酷く痛めているであろう背中を労わりながら、地面へと、ノリコを横たわらせる。
荷物を持ち、取って返し、有りっ丈の薬草と包帯を取り出し、夜具の毛布を引き出して広げた。
ノリコの怪我の具合を診る為に、服を脱がそうとして……帯に手を掛け、止まった。
彼女の肌を、晒さなければならないことに躊躇いが生じる。
急を要していることは重々承知している。
脱がさなければ怪我の具合を診ることも、手当てを行うことすら出来ない。
意識を失うほどの衝撃と痛みを、彼女はその身に受けたのだ。
……命に係わるほどの怪我を、受けたかもしれない……
――済まん……許せ! ノリコ
とにかく、処置が先だとイザークは強く自分に言い聞かせ、何度も心の中でノリコに詫びながら彼女の帯を解くと、ゆっくりと毛布の上に俯せに寝かせた。
服に、血が滲んでいる……
肩、背中、足……ほぼ、全体的に……
小さな背中が、より、小さく見える。
イザークは唇を引き結ぶと、小刀でノリコの服を引き裂いていった。
――ッ!!
怪我の症状は、想像よりもずっと酷かった。
既に蒼く、酷いところは赤黒く腫れ上がり、内出血をしている箇所が幾つもあった。
どれほどの衝撃と、痛みだったのだろうか……
イザークはそのまま、土砂に埋まった足の方も診る為、上着と同じように下の服も、小刀で引き裂いてゆく。
「……これ、は……」
イザークの表情が更に歪んでゆく。
一時的だったとはいえ、抜け出すことが出来ないほどの量の土砂が覆い被さったのだ。
ノリコの足は全体的に赤くむくみ、更に重みが加わったと思われる個所は紫色に変色していた。
このような状態で、どうしてあれだけのことが出来たのか……
必死に体を引き摺り、涙を零しながら『イザークが好き』と言ってくれたノリコの姿が瞼に浮かぶ。
イザークは、胸に熱いものが込み上げてくるのを覚えつつ、彼女の応急処置に取り掛かった。
薬草を塗り、湿布を当て、包帯を巻く……
どうしても、彼女を仰向けにしなければいけなくなる――抱き上げ、抱えなければならなくなる……
意識の無い彼女の裸体を眼にするのは、至極、悪いことをしているように思えてならない。
それに…………手が、指が、腕が、体が――触れてしまう……
致し方の無いことなのだが、触れる度に鼓動が乱れる自分が、少し情けなく思えた。
クタリ――と、力なく、しな垂れる首……
さらりと、彼女の細い項や首筋を、髪がしなやかに流れ落ちてゆく。
昇り掛けた月明かりに照らし出される胸元が、息を呑むほど艶めかしく映る。
自分の腕の中いるノリコ……
イザークは魅せられたかのように彼女の首筋へと、指先を向けていた。
月明かりは蒼白く彼女の肌を照らし、ぼやけた陰影が体のラインを強調している。
包帯を巻いても尚、華奢な体つきに見合わぬその豊満な胸が、イザークにノリコが『女性』であることを、自覚させる。
首筋をそっと擦り、その指先を薄く開いた唇へと向かわせる。
暫く――行き先を見失ったかのように指先を彷徨わせた後、色を失いつつある唇に触れることなくイザークは手を引くと、少し冷えたノリコの体を抱き寄せていた。
風が、冷えた夜気を運んでくる。
イザークはノリコをそっと横たえ、涙の跡が残る頬を優しく拭いた。
服を着替えさせ、自身も新たに服を取り出し着替えると、これ以上彼女の体を冷やさぬよう夜具の毛布で包み抱き上げ、皆と合流するために、ゆっくりと歩きだした。
***************
彼女を手当てする時、応急処置を優先した為とはいえ、彼女の肌を晒し、触れてしまったことに対して、イザークは至極悪いことをしたと、思っている。
それは、自己嫌悪……
彼女の命に係わるかもしれない事態だったにも拘らず、処置をしている間、やましい思いがなかったとは、決して言えないからだ。
今も、彼女の白い肌が、否応なしに脳裏に蘇ってくる。
自分も『男』なのだと、自覚させられる。
人を――あからさまにそういう眼で見てくる女性たちを忌み嫌っていたが、なんということはない。
自分の中にも、同じような欲情があるではないか……
こちらは忌み嫌っても、逃げることも無視することも出来ない。
自分を、清廉潔白な人間だと思ったことはないが、これほど、『欲』があるとも思っていなかった。
いや……本来、そうなのかもしれない。
ただ、抑え付け、眼を背けていただけなのかもしれない……
急に、自分が薄汚れた人間のような気がしてくる。
今まで、感じることの無かった感情や欲に、些か動揺する。
こんな感情、誰にも気付かれたくなかった……特に、ノリコには……
イザークは一つ深呼吸をし、気と、気持ちを落ち着かせると、野営地へと戻り始めた。
*************
「……う――ん……ク……」
時折、眉を顰めながら、微かに呻くノリコ。
イザークに頼まれ、ノリコの傍らに座すガーヤには、彼女が夢に魘されているように思える。
「可哀そうに……どんな夢を見ているんだろうねぇ……」
乱れた前髪を整えてやりながら、ガーヤは心配そうに眉を顰めた。
「少し、いいかしら。ガーヤ」
作品名:彼方から ― 幕間 ― 作家名:自分らしく