果てない夜 儚い朝
快斗の襟元をぐっとめくると、血が乾き黒くなり始めている傷口が新一の目に映る。。
「…これどこでつけた……?」
「…ちょっと転んじゃって」
俺ってドジだからさぁと、見え透いた嘘を吐く。
騙されるとは思っていない。けれど、この存在をさらけ出せば、キッドとしての己を晒す羽目になるから、それだけは避けたかった。……今は黒羽快斗として工藤新一に会いに来たのだ。
キッドと探偵ではなく、ただの大学生の友人としての時間を過ごしたかった。
快斗の心が癒されるのは、新一のそばだけだから。口が悪かったとしても、態度が横柄だったとしても。最後には目の前にいる相手の腕だけが快斗を包んで休息の場所をくれる。
だからといって恋愛感情なんて持っていない。
平次から新一を奪う気もなくて、万が一そんな事をしたら新一が辛い想いをするのは明白だし、快斗自身、新一が傷つくのは嫌だった。
大切だから、いつだって笑っていて欲しい。
だから、平次関連で新一が落ち込んでいたら、快斗は二人に気づかれないように奔走だってするし、探を巻き込んで盛大な仲直りの場を設けた事もある。新一が元気にそこで笑ってくれたら……それだけで快斗にとっては嬉しいのだ。
「肩を転んで怪我する奴なんて滅多にいないよな。……これはどう見ても弾が掠った後にしか見えねぇんだけど」
「だーかーらー…それはだなぁ」
快斗にしては珍しい歯切れの悪さに新一は小さく息をつく。心配していたのが杞憂かと思っていたが、さっきの微かにぎこちない靴紐の解き方を眺めているうちにそれは間違いだと気づいた。そうとう無理をして明るく振る舞っているんだろうと予想し、それが確信に変わった途端にひりつく様な痛みが胸に生まれて、なかなか消えてくれなかった。
こんな時にまで笑ってんじゃねぇよ……っ。
さらにきつく睨み付ければ、快斗の顔から完全に笑みが消え、やがて「ごめん……」と掠れた声で謝罪された。
訪れる静寂に耐えられなくなり、先に声を出したのは快斗で。
「……じつは」
「まったくっ。怪我してんだったら、手当ぐらい素直に頼めよなっ。なのにお前は俺に一言もしてくれって言わねぇし、挙げ句の果てにからかってくるしよ…っ」
「え? 新一……?」
「ほら、さっさとそこに座れっ。ちょっと待ってろよ今手当してやっから」
有無を言わさずに快斗をベッドに座らせる。
「ああ、ありがと……」
部屋から出ていく新一の背中を半ば呆然と見つめながら、今自分が置かれている状態を必死に把握しようと努めた。
(手当って、それは嬉しいけど……。でも、怒る場所が違うんじゃねぇのか……?)
……キッドだからだろうか。
ライバルがいなくなるのは許せない。だから助ける……。
自分の手で怪盗キッドを監獄に送りつけると豪語している新一だから、他人の手でどうにかされるのは我慢できない……なんて考えているのかもしれない。
「ありえる…。名探偵なら絶対にありえる……」
無意識のうちに呼び名が変化しているのに快斗は気づかなかった。
怪盗モードへと切り替わりそうになる意識を引き戻したのは、訝しげな新一の声だった。
「何がだよ。一人でブツブツ気持ちわりぃな」
手に救急セットを抱え快斗の隣に腰を下ろす。
「ほら、さっさと脱げ。って、よく見りゃシャツにまで血が滲んでるじゃねーか……。放っておいたら化膿するし大変なんだぜ、こういうのは」
「あ、ああ」
「まったく、ただの大学生がこんな傷作ってくんな。傷は勲章だなんてふざけた事言うやつがいるけど、俺は生憎そういうのは許せないタイプなんだ。自分が傷つく事で周りががどれだけ心配するか少しは考えて欲しいもんだぜ」
テキパキと快斗のシャツを脱がせた新一は、まだ真新しい傷口を見て微かに眉をひそめる。破れた皮膚から滲んだ赤い血に、もしかしたら最悪の結果になっていたかもしれないと今更ながら背筋が寒くなり、慌てて想像を掻き消しながら傷口をゆっくりと消毒し始めた。
見た目は同じでも、体つきはまったく違うのに手当をし続けながら新一は改めて気づく。
よく見れば消えかかっている擦り傷などもいくつかあり、その一つにそっと指を這わせていった。まだ真新しいものから、すでに一生傷になっているものまで。全て、快斗が自分の信念の為にくり返してきた過程でできたものだろう。
「……俺がさ、もし死んだら新一はどうする?」
泣いてくれるか……と、覇気のない声に鈍い痛みが新一の心に走る。
「泣いてなんかやらねぇよ」
「…は、冷てぇの。名探偵って時々辛辣だよなぁ」
「それから、その名探偵ってのもやめろ。今の俺はただの大学生の工藤新一だ。それに…お前も、だろ」
包帯をしっかりと巻き終えた新一は眼差しを綻ばせた。それだけで空気が変わる。快斗の目が驚きの色に染まって、やがて新一と同じように柔らかい光を滲ませ始めた。
「俺も……?」
「そう、俺と同じ東都大学に通うただの学生なんだよ。ついでに付け加えると、快斗は結構しぶといから簡単に死にそうにないけどな」
「…新一、最後のは誉めてねぇだろ」
「さあ?」
「新一~っ」
手早く後かたづけをすると、新一はふてくされた快斗を無視しながら立ち上がって部屋から出ていく。
ただの大学生…と、もう一度快斗は唇を微かに動かし小さく呟くと口元にそっと笑みを浮かべた。気がつけば、さっきまであった胸を刺す痛みは薄れていて、今は気持ちも幾分軽くなっている。
怪盗と探偵。
……でも、今は違う。
少なくともこの時間を過ごしているのは黒羽快斗と工藤新一なわけで、大学生活を共にしている友人同士というのが二人の関係なのだ。
「今日は日曜だし、ゆっくりしていくだろ?」
暫くして新一が二つのカップを持って戻ってくる。仄かに珈琲の香りが鼻孔をくすぐっていき、快斗は直ぐに「もちろんっ」と返した。
夕方には平次がくるが、それまではこの友人を独り占めしていたい。自分が自分らしく出せる場所の心地よさ。そして、甘えられる事の嬉しさを新一は快斗に教えてくれた。
「そういえば、今日図書館で白馬に会ったぜ。おめーら最近会ってないんだな」
「…なんだよ、突然」
「いや、なんだかあいつ淋しそうだったからさ。快斗なんかしただろ」
決めつけながら新一はカップを手渡す。
「新一って性格悪いって言われるだろ」
少しだけいじた態度をとれば、新一は小さな溜息をわざと零した。
「なんだよそれ。こんな親切に人の恋愛を応援してやってるのによ」
「どこが親切だっての。まったく、ダンナがベタ惚れな奴はいいよ。心配なんて何もしなくていいし」
常に新一の傍にいる相手を快斗は思い出す。きっと今日も二人で甘い時間を過ごすんだろう。
けれど、口にすると新一が怒るのは目に見えているので敢えてそれ以上は言わなかった。他人の恋愛には結構鋭いくせに、自分の事に関してはどうしてこんなにも鈍いんだろうかと、時々真剣に突っ込まずにはいられなくなる。平次といる時の新一の表情がどんななのか、どんな風に平次を見つめているのか。一途という言葉がぴったりくる眼差しに快斗は何度も出会っている。
「な……っ、何馬鹿な事言ってんだよっ」