章と旌 (第三章)
金陵の城門を、遥かに離れた東屋に、人がいるのがやっとわかる程度なのだが、平章にはそれが平旌であると確信していた。
━━まさか馬もなしで、ここまで来るとはな。━━
東屋は、城門からはるか離れ、帰る人を待ち、人と人が会い、そして人が別れ、そして見送る、そんな場所だった。
東屋のその人影は、座して柱に体を預けているように見える。
平章は馬の足を緩め、東屋にゆっくりと近づいた。
全く身動きもしない人影に、平章は、少々狼狽えていた。
━━いつもの平旌ならば、私に気がついているはずなのに、、。━━
そして平旌が自分に気がついたがどうかは、平章にも分かるのだ。
生気すら感じない人影に、冷や汗が出る。
━━まさか、、、、死、、。━━
東屋の側まで来て、馬を降りて、ゆっくりと近づいて行く。
これほど近づいても、身動きもしない後ろ姿。
人影はまさに平旌だった。
平章は、東屋にの柱に寄りかかる、平旌の正面に回り、様子を伺う。
「、、、平旌?。」
平旌の頬に触れる。
ひんやりと冷たい頬、、、、だが、息はある。
首筋には汗が。
━━ここまで走って来たのか?。、、ここで疲れて、、。寝ている???。━━
「こら!、平旌!!。驚かすな!!!。おいっ、起きろ。」
平章は、弟の肩を揺すって、起こしにかかる。触れた服が、じっとり汗ばんでいて冷たい。ここで、冷たい風に、吹かれたのだろう。ここの東屋は、小高い場所に建っており、風がよく通る。
「平旌、風邪をひくぞ。こら、起きろ。」
よほど疲れたのか、ぐっすりと寝入っている様子で、中々目覚めない。
「おいっ!!、平旌!!!。」
「、、あ、、んんっ、、。」
思い切り揺すって、漸く、目を覚ます。
「どれだけ、ここにいたんだ。体が冷えきっている。ほら、しっかりしろ。」
平章は自分の脱いだ外套で、平旌を包んだ。
「、、、、、ぁっ、、、ぁ、兄上、、。」
「どこに行ったかと探したぞ。まったく、お前は、本当に思いもよらぬ場所にいて、、、。見つけられないかと思ったぞ。」
「、、、兄上、、、、。」
平章は、甲斐甲斐しく、冷たい風が当たらぬように、平旌を包んでやる。
どうしていいか、どこに行けばいいのか、途方に暮れた平旌には、嬉しいが、心の中が複雑に、目まぐるしく掻き回されていた。涙が溢れ、幾筋にもなって流れ落ちる。
「バカ、何を泣くんだ。」
平章が右手の包帯で拭いてやった。いくら拭いても、平旌の涙は止まらない。
「もう平気だ、ほら、腫れもすっかり引いた。私の不養生が招いたのだ。平旌には関係ない。何を気にする?。」
包帯の巻かれた右手を、平旌の前に出してやる。
「、、ぅ、、、ぅわぁーん、、、。」
痛みはまだ残り、皮膚の色も赤黒い。完治には程遠いが、あれほど腫れていた右手は、以前に戻りつつあった。
「お前のせいでは無い。気にしなくていい。」
「、、、ゴメンナサイ、、、ゴメンナサイ、、、。」
泣きじゃくる声の合間に、平旌は必死に謝っていた。
「バカ。泣くな、男だろ?。」
平章は微笑みながら、コツンと自分の額を平旌の頭に当てた。
二人は、頭をつけたまま、平章が平旌の後頭部辺りから、背中まで、何度もゆっくり撫で下ろしてやる。
しゃくり上げながらも、平旌は次第に落ち着いていった。
しゃくり上げが、漸く無くなった所で、平章は額を離した。
そして、平旌の顔を、まじまじと見つめた。前髪に隠れて見えないが、額の左を擦りむいている。そして顔は泥まみれ。何度も涙を拭いてやった頬だけは綺麗だが、鼻や口の周りは笑える程汚れている。
「酷い顔だな、平旌、、、途中で派手に転んだのか?。どこか痛めてないか?。」
笑いながら、顔から体に視線を移し、よくよく目で調べる。
平旌は両の掌を、擦りむいていた。膝も衣服が破れ、擦りむいて、血が滲んでいた。
平章が降りて、そのままにしていた馬が、いつの間にか二人の側まで来ていた。
平章は立ち上がり、馬具から水筒を取ると、袖に染み込ませて、平章の顔を拭いてやる。平旌はされるがままにしていた。その表情は、申し訳なさそうに下を向いていたが、どこか嬉しそうだった。
そして、擦りむいた掌と膝も、水を流して汚れを落としてやった。平旌は痛がったが、洗い流さなければ、平章の右手の様に腫れ上がるだろう。
残りの水は、平旌が飲み干した。
水筒を返された平章が、綺麗になった平旌の顔を見て、ぽつりといった。
「お前が悪いのでは無いのだ、、、全て私が、、私が悪いのだ。」
そう言うと、深いため息をついて、平旌の隣に座った。
平旌は不思議そうに、平章の横顔を見ている。
秋空の下、汗をかき、風通しのいいうたた寝をして、やはり寒かったのだろう、平旌の体が微かに震えている。
平章は、平旌の体を腕で包んで、傍に寄せる。
平旌は、じんわりと温かく力強い、兄の体温を感じていた。
「長林軍の本営から急報が来て、、、、即座に私は、、、お前なら、大役が果たせると、、、、心の中で思ったのだ。」
それのどこが悪い事なのか、平旌には全く分からなかった。自分も行けるし、行きたいと、あの時、心から思ったのだ。
「私は、兄上がいた部屋の、隣室にいたんだ。そしてこっそり話を盗み聞きしてたんだ。、、、勝手に動いたのは私なのに、、、兄上が悪いわけが無い。」
「、、、、。」
「将家の子なら、当たり前でしょ?。」
「、、誰かに、そう言われたのか?、平旌?。」
「えっ??、、、誰か??、、。」
誰かに言われた訳では無い。父や兄に言われた覚えもないし、皇帝に言われた訳でもない。ただずっと、将家とは、そういうものだと思い込んでいた。父親や兄の姿に憧れ、その背中を見て感じ取っていたのだろう。
「私達、長林王府の家族は、口に出さなくても、分かってしまうような、、そんな感覚がある。平旌にも、時にそんな事が有るだろう?。
あの日、、私が、平旌に感じさせてしまったのかも知れない。」
「それの何が悪いの?。兄上は、どうしてその事を苦しむの?。」
「お前はまた、十三なのだぞ。私は軍人でもないお前に、危険な敵軍の中をかい潜らせる様な事を、、、。百戦錬磨の将軍でも、緻密に準備をしただろう。そしてもっと別の方法を取ったかもしれない。なのに私は、、急ぎたいあまりに、手っ取り早い方法を、一瞬でも頭に浮かべた、、、。お前の身に、万が一の事があったら、、今でも、お前を送り込もうと考えた、自分を思い出すと、、ゾッとする、、、。」
「でも、私が行くのが、一番早くて、最も損害が少なかった筈だよ。たしかに黙って行ったのは、、、悪かったけど、、。言ったら、きっと止められると、、。」
「たしかに、、そうなのだ、、、。お前が行くと言ったら、絶対に止めていた。だが、、私が一瞬思った事を、お前が感じ取り、実行していた事の恐ろしさに、あの時は気が付かなかった、、。お前がいないと聞いて、心のどこかでと、『行ったのだろうな』と思ったのだ。そして、また、無事に帰ってくると、軽く考えていた。
、、、数日経ち、お前の行方が、いよいよ分からなくなって、初めて私は事の重大さに気がついたのだ。、、、、私が行っていれば、、、お前にふた月も逃げ回る生活をさせずに済んだのに、命の危険も、何度もあったろう?、、。」