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炬善(ごぜん)
炬善(ごぜん)
novelistID. 41661
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CoC:バートンライト奇譚 『猿夢』 下

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『猿夢』エピローグ



 あれから半月が経過した、昼下がりのバートンライト邸。
 
 バリツは書類の一つを書き上げると、ふうと一息ついた。

 オランダ製の木製デスクにペンをそっと転がし、開いていたノートパソコンを、一度スリープモードに切り替える。

 自らのオフィスチェアへと背中をぐっと預け、一度目を閉じる。
 そして数瞬の後開くと、ぼんやりと視線を巡らせる。

 近代のイギリスをモチーフにしたインテリアの数々。
 ブラウンを基調とした、シックな木製の内壁。
 今まさにもたれかかっている、メッシュ素材採用の多機能オフィスチェアは、部屋のコーディネイトとしては不釣合いだが、彼の仕事において長年欠かせない存在であった。

 冒険家教授である彼は本来フィールドワークを望むところであるが、毎日がそればかりとはいかない。他の同業者や大学機関の論文に目を通したり、学術大会の日程を調節し、探索の資金源となる種々のデスクワークに着手している。

 現代社会で生きる以上、地味な日常こそが大半である。

「はあー……」

 チェア-のリクライニングを更に倒し、バリツは深く息をついた。
 そして目を閉じると、一週間前の怪異が、今なお脳裏に競りあがってくる。

 電車の音。アナウンス。毛皮と金属の入り混じった臭い。断末魔の悲鳴。
 こうして目を閉じているだけで、悪夢の光景が夢の中に満ち、五感を支配していくのでは――そんな恐怖が今もぬぐえない。
 
 恐怖。
 そう。恐怖だ。
 夢にして夢ならざる、あの領域で、バリツは確かに幾度となく味わったのだ。
 目前の「死」を。かつてない戦慄を。

 眉間をグッと指で摘み、ふつふつとこみあげるトラウマを押さえ込もうと試みる。
 だが、気休めにもならなかった。

(今こうして自分が五体満足でいられるのは、奇跡に他ならない――奇跡と、幸運と、奇妙な数々の縁の賜物に、他ならないのだ……)

 他の誰でもない――自分自身の思念が、後味の悪さを際立たせていく。

 目を開き、チェアーを元の角度に戻すと、テーブルの上で冷え切っていたコーヒーをぐっと嚥下する。

 ありふれたドリップコーヒー。しかも冷めている。
 事の発端となったあの喫茶店の味にはどうしても劣るが、それでも思考のベクトルを切り替える手助けにはなったように思えた。
 
 息をつくと、自身の部屋のあちらこちらに視線をさまよわせてみる。
 シャンデリア。風景画、壷入り観葉植物。飾られた盾と剣。本棚の古典に古文書たち。
 すっかり落ち着いた様子で陳列された、色とりどりのアンティーク。

 真に希少性の高い品もあることはあるが、ほとんどは洒落たインテリアショップの類に足を運べば、大掛かりな奮発なしでも手に入る品々であった。

 深呼吸しながら、探索を共にした皆に、思いを巡らせる。

 バニラはあの後、すぐに連絡を取ることは叶わなかったが、後日、無事を知らせる端的なメールが、仕事用のアドレスに届いていた。改めて食事をと添えて返信したが、その返事はない。少なくとも今のところは。

 タンは、今日は休暇をとり、出かけている。
 彼が趣味とし、バリツも少しだけ嗜んでいる、由緒あるカードゲームの大会があるようだ。
 一連の怪異の中でも特に憔悴していたはずであるが、彼のバイタリティ――「図太さ」か?――には素直に舌を巻かざるを得なかった。
 尤も、そのゲームで優勢になると知るや否や、すぐ煽りに走るあの根性は頭を抱えざるを得ないのだが……。
 
 斉藤とはSNSを通じて繋がっている。今は次の展覧会に向けて、新たな作品を作っている。掲載していた画像を察するに、壷のデザインからは、どこか――否、露骨に猿の意匠が伺えるが……。

 猿――。

(エリックは――無事に逃げおおせたのだろうか?)

 エリック。斉藤と奇妙な、しかしながら深い絆で結ばれた、猿の生き残り。

 彼は最後に、怪異の経緯を多く語ってくれた。
 それでも、未解決の謎はあまりにも多かった。

 黒幕と思しき、謎の存在ミ=ゴ。
 その者が生み出した殺戮兵器たち。
 あの「猿夢」の都市伝説は、これからも人々を脅かしていくのか?

 そして――。

 『オマエ、何かに魅入られてイルぞ。セイゼイ用心するコトだな』

 最後に言い残された言葉に促されるかのように、目線を下に落す。
 視覚が捉えるのは、まだまだ作業中の机。紙とペン。空になったコップ。スマホにメモ等々。

 だが、自身が意識を向けるのは、視覚で捉えきれない先――地下に面した、秘密の倉庫だ。
 その最奥の金庫にて、かつて「尾取村」で回収した邪悪な本――『ヨグ=ソトース』の召喚・退散の呪文が記された書物が、厳重に保管されている。

 その危険性と、得体の知れなさ故に、研究材料として掘り下げることも、処分することも、バリツには躊躇われた。
 結果として、誰の手にも届かぬよう、秘匿することを選択したのだ。

(あの始めの怪異が、縁となっているとしたら……まだまだ自分は、怪異からは逃れられない。そういうことなのだろうか?)

 そしてバリツの脳裏を、最大の謎が過ぎる。

 あの幼女は、結局何者だったのか?
 
 あの領域で、さながら我が家のように寝転んでいた幼女。
 まるで気まぐれに自分達を助け、気まぐれに自分達を迎えたのかのような幼女。

 その正体は、エリックですら分からなかった。どころかエリックは、彼女の存在自体を知らなかった様子だ。

 もはや、考えても考えても、答えが見つかる気がしなかったが――また出会うことがあるというのだろうか?


 画面が暗転したパソコンの画面は、黒い鏡となり、憂鬱なアラサーの姿を映し出している。自分で言うのも何だが、けっこう色男だとは思うけどネ。このバリツ。

「そういえば――」

 戯れか、気まぐれか、ついパソコンに映し出された自身に語りかけるかのように、一人ごちてしまう。
 あの子は、どこか彼女に似ていた。
 ――『知りたいのですか?』
 謎めいた言葉で自分を凍りつかせた、小さな狂信者に。

「……あれからまだ、アシュラフ君の姿を見かけてないな」

 テーブルに置いていたスマートフォンが、突如として鳴動した。
 登録されていない番号だ。
 バリツは訝ったが、自身は立場上、誰から連絡が来るかが分からない。

(はた迷惑な業者の類であることもしばしばあるが――)

 そっと手を伸ばし、着信に応じると、聞き覚えのある、やけに興奮した息遣いが、電話越しに聞こえた。

『へへっ、やあバリツ君! あの喫茶店以来だね』

「――芥川君……!」
 思わず、オフィスチェアから立ち上がった。声がつい、微かな怒気を帯びてしまう。

 塵芥川――もとい、芥川寅次。
 元はといえば、彼が語って聞かせた都市伝説が原因となって、自分達は怪異に巻き込まれた形だ。

 彼自身も、そこまでの悪気があったわけではないようだが、「何か不思議なことがあったら連絡してくれ」、と言い残していたわけだ。

 バリツはお望み通りにとばかりに、あれから間もなく、彼の連絡先に電話を行っていたが、何故か連絡がしばらくついていなかったのだ。