彼方から 第三部 第ニ話
「やがて運命の流れは――わたし達の味方をしてくれるでしょう」
ほんの少し、唇の端を歪めただけの微笑みでさえ、彼女の美を際立たせている。
その美しさと、鈴の音のような声音から齎される『占い』の結果に、皆、眼を向け、耳を傾けた。
一声も漏らさず、一時も見逃すまいとでもするかのように……
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「みんな、無事かっ!」
馬を道に乗り捨て、アゴルはジーナを抱き、急いで玄関のドアを開け放った。
ドアを開けてすぐ、皆の憩いの場であるリビングには、馬車の修繕を終えたイザークとバラゴが、そして、台所には夕食の仕度を始めたノリコが立っていた。
外はまだ夕陽に照らされ、それなりに明るいが、家の中は薄暗く、テーブルの上や棚の上には既に、灯明が灯されている。
「おかえりなさい、アゴルさん」
その灯明の仄明るい光のせいだろうか……微笑み、迎えてくれる彼女の表情が、少し硬いように見える。
「一応、大丈夫だぜ、アゴル」
そう返してくるバラゴに眼を向けると、隣に座るイザークと互いに顔を見合わせ、頷き返してくる。
玄関に立ったまま、皆の様子を見回し、アゴルはやはり何かあったと確信していた。
「何があった」
「そっちも、何かあったのだろう? ジーナの様子がおかしい」
父アゴルに抱きつくジーナの変化に気付き、イザークが反対にそう訊ねてくる。
「ああ、実は……」
「まぁ、待て」
そのまま、話し出そうとするアゴルを制し、バラゴは立ち上がると、
「とにかく、一息吐こうぜ? おまえ、馬を放り出したままだろう? 繋いでくるからよ、とりあえず座れよ」
そう言って、彼と入れ替わるように外へと出て行く。
「あ、ああ……」
バラゴの言葉に、アゴルは未だ怯えしがみ付いているジーナの頭を優しく撫でながら、テーブルに着いた。
「アゴルさん、お水……」
「あ、ああ、済まない。ありがとう」
二人分の水を持って来てくれるノリコ。
その動きは、怪我をする前とほぼ、遜色がない。
「もう直ぐ、お夕飯が出来るから、待っててね、ジーナ」
身を屈めながら、表情の強張っているジーナに、ノリコは優しく声を掛ける。
「……うん」
ノリコの微笑みに、ジーナも少し気が解れたのか、コクンと頷き笑みを返していた。
屈めた体を起こす時、どこかに痛みが残っているのか、少しだけ、眉を潜めるノリコ。
「大丈夫か、ノリコ」
「うん、大丈夫」
直ぐに潜めた眉を戻し、台所へ戻ろうとする彼女に、イザークが少し身を乗り出して声を掛ける。
そんな彼に、ノリコは軽く手を振りながらにっこりと微笑み返した。
――目聡いな……
――しかし、これでは、バラゴじゃなくても、過保護だと言いたくなる
――心配性だと……そう言ってしまえばそれまでだが……
ちゃんと、ノリコが台所に着くまで眼を離さないイザークの様子を無言で見やりながら、アゴルは心の中で溜め息を吐いていた。
ふと、エイジュも今のイザークと同じように、ノリコの動きを良く見ていたなと思い出す。
だが彼女はほとんど黙って見ていただけだった。
ノリコが出来るところまでは自力でやらせていた……本当に助け手がいる時だけ、手を貸していた。
エイジュの場合、イザークとは違い、『見守っている』という言葉がよく合っている気がする――
「よぉ、少しは落ち着いたか?」
そんな、取り留めのないことを想っていると、馬を繋ぎ終えたのか、バラゴが戻って来て声を掛けてくる。
「ああ、気を遣わせたな」
アゴルの礼に、バラゴはにかっと懐っこい笑みを見せると、いつの間にか定位置になってしまっているアゴルの向かいへと、座った。
「それじゃ、お互い何があったか――報告し合うとするか」
バラゴの言葉に、イザークとアゴルは無言で頷いた。
***
「そうか……ノリコが……」
空になった食器を洗っている彼女を見やりながら、やっと落ち着きを取り戻し隣に座る娘の頭に、アゴルはそっと、大きな手を乗せていた。
「ああ……『黙面様』とやらがノリコを求めていると、そう言っていた」
頬杖を着き、イザークが昼間の出来事を思い返すかのように、ノリコを見やる。
カチャカチャと、食器を洗う音。
彼女の表情を伺うことは出来ないが、話しをしていれば当然、思い返しているだろう。
連れ去られかけた……その時のことを。
「もう少しのところで……」
イザークはそう呟くとテーブルに視線を落とし、唇を引き結んだ。
静かな怒りと悔しさが、彼の表情から伺える。
「妙な術で、消え失せたというわけか……」
「ああ、バンナとかって呼ばれていた奴が、『お助けを』って叫んだ途端に、イザークに倒されていた奴も、他の連中も一緒にな」
「あいつはあの時、首から下げていた大きなペンダントを掴んでいた……」
バラゴは、『未だに信じられん』とでも言いたげに肩を竦めて見せ、イザークは消え失せた時のことを思い返しているのか、テーブルの上に置かれた灯明を睨みつけるようにしている。
二人の話しに、アゴルは腕を組むと少し考えこむように俯いてゆく。
「それで? アゴル、おまえの方は何があったんだ?」
「ん? ああ、それなんだが――」
アゴルは町で、家主に声を掛けられてからのことを、手短に話して聞かせた。
「化物……?」
眉を潜め、訊ね返してくるイザーク。
「ああ……最初、たくさんの泡を占たそうだ、その後、泡が重なり大きくなって、人の顔のようになり、そして――形の定まらない体の中にいくつもの目玉を抱えた化物が、牙を剥いて襲って来ようとしているのを占たと、教えてくれた……」
占いで占た『化物』を思い出したのか、ジーナは父の服を掴みながら、体を寄せてゆく。
アゴルはそんな娘を慈しむように見やり、膝の上へと抱き上げた。
胸に顔を埋め、強く服を握ってくる娘、ジーナ……
「ジーナが、占いをしてあんなに怖がったのは初めてだ……今もまだ……」
怯えの残る娘の髪に唇を寄せ、アゴルは彼女の髪を優しく撫でてやっている。
「ジーナ……」
人数分のカップを乗せたトレイをテーブルの上に置きながら、ノリコが心配そうに彼女の名を呼ぶ。
ノリコの声に、少し、顔を上げるジーナ。
眼が合い、ノリコは優しくにっこりと微笑むと、
「少し、甘くしたの……飲む?」
持ってきたお茶の中からジーナのカップを取り、そっと、差し出した。
「……ありがとう――おねえちゃん」
眼の前に差し出された、少し湯気の立つカップを受け取りながら、ジーナはやっと、笑みを見せた。
「済まないな、ノリコ」
アゴルの礼に、ノリコは微笑んだまま首を振ると『アゴルさんもどうぞ』と、彼のカップを差し出し、バラゴとイザークの前にも二人のカップを置いてゆく。
自分も定位置となったイザークの隣に座り、
「みんなも飲んでね」
と、微笑むと、カップに口を付けた。
眼の前に置かれたカップを手に取り、其々がちゃんと彼女と眼を合わせ、礼を言いながら口にしてゆく。
気が付かぬうちに喉が渇いていたのだろうか……
皆暫くの間、無言でノリコの淹れてくれたお茶を味わっていた。
作品名:彼方から 第三部 第ニ話 作家名:自分らしく