その先へ・・・3
(5)
いつもの様に、ユリウスはリュドミールを先生にロシア語の勉強に励んでいた。
7年という時の流れは、ユスーポフ家を明るく照らしてきた無邪気な少年を 凛々しい青年に成長させた。
「ねぇ、リュドミール」
「はい、どうかしましたか?」
にこやかに顔を上げたリュドミールは、もう間もなく士官学校に入学することになっている。
表情豊かで明るいリュドミールは、誰からも愛され、ユスーポフ家の明るい未来そのものの様だった。ずっとかたわらにいて、その成長を見てきたユリウスも、誇らしく思っていた。
「レオニードとヴェーラはどこに出かけたの?」
「……、オペラですよ」
「へぇ、ヴェーラがオペラだなんて珍しいね。しかも御父上の喪もまだ明けていないのに?」
「………」
ユリウスは面白そうにくすりと笑うと、上目遣いリュドミールを見つめた。
「大きくなっても、嘘が下手だね」
「嘘なんか……!」
「今度士官学校に入るきみに、とっておきの秘密をおしえてあげる。きみは嘘をつく時、必ず一回相手から視線を外すんだ。きみは素直ないい子だから、ホントわかりやすい。覚えておくといいよ」
頬を瞬時に染めたリュドミールは、クセのある髪をクシャクシャとかき混ぜた。
「……御前演奏会ですよ」
「御前演奏会に?」
ユスーポフ家の兄妹は、社交の場に頻繁に出席する方では無い。
過日、ユリウスがテロに巻き込まれてからは、より一層外出することは稀になった。
しかも彼らの父親の喪もまだ明けてはいないなか、二人そろって演奏会とは……。
「……ねえさまの友人の、アナスタシア・クリコフスカヤ嬢が、来週からヨーロッパへの演奏旅行へ行くんだそうです。ヨーロッパ中を回る予定になっていて、ロシアへ戻るのは何か月も後になるって。演奏旅行への出立前最後の御前演奏会なので、ねえさまがぜひ出かけたいと。兄上はねえさまの護衛です」
「演奏旅行……」
「アナスタシアは今や社交界の花形なんです。彼女の不在を惜しんでいる人が多いそうなので、ねえさまとゆっくり話が出来るかどうかはわかりませんが」
「そうなんだ。アナスタシア……あの人が」
テロに巻き込まれたあの日、劇場で『アレクセイ』の事を訴えてきた優雅な貴婦人、アナスタシア。
「お久しぶりね」
初対面の彼女からかなり親しげに声をかけられた。
しかもその後、
「『アレクセイ』を追ってドイツから……」
思いもかけず『アレクセイ』の名を告げられ、激しく動揺した。
言葉はうまく繋げられなかったけれど、もっと彼女と話したかった。しかし、すぐにレオニードが迎えに来たのでその話の先は聞けず、そこで彼女とは別れてしまった。
なんとなく後ろ髪がひかれ、振り向いた時に見えた彼女は青ざめ、こちらを呆然と見つめていた。
彼女とは『アレクセイ』で繋がっていたのだろうか?
いつ彼女に会ったのだろう?
彼女と何を話したのだろう?『アレクセイ』の事を話したのだろうか?
ドイツから来たと言っていたが、彼女が知る「自分」とは一体何者なのか……。
「『アレクセイ』を追ってドイツから……」
この言葉が頭の中でこだまし、オペラの最中も内容はまったく入ってこなかった。
気分が悪くなり、先に戻ろうと馬車に乗った所をレオニードに間違われ襲われたのだ。
ユリウスはそっと右腕の傷に触れた。
あの夜から、腕の痛みと共にユリウスに襲いかかったのが、胸の奥に絡んでいる訳の分からないざわめきだった。
『アレクセイ』
この名が常に胸の奥にひっかかり、そのたびにアナスタシアのあの真剣な瞳と『アレクセイ・ミハイロフ』の姿がよみがえった。
腕の痛みは薬を打てば軽くなり、時が経てば癒された。
けれど胸の奥のざわめきは、時が経てば経つほどユリウスの心を締め付け、苦しめ続けた。
『アレクセイ・ミハイロフ』
7年前のあの雪の日。
屈辱的な扱いを受けているはずなのに、しっかりと前を見据えていた青年。
今の自分が持つ記憶の最も奥深くに、あの時の光景がしっかりと刻み込まれている。
あの時以来、こんなにも長い間彼の事を考えているのに。
自分自身の事を探ろうと思いを巡らせると、必ず彼の事が思い浮かぶというのに。
「あの青年」である『アレクセイ』が、自分とどんな関わりがあるのか、まったく分からない。
自分がもどかしく、腹立たしくもある。
「……リウス。ユリウス?どうしたんですか。大丈夫?……ですか?」
「あ、ああ。ごめん。大丈夫だよ」
ユリウスは席を立って窓辺へと歩いていった。
窓にはまだ雪が張り付いている。
雪に閉ざされた世界。
……ロシアの春はまだ遠い……。
シベリアに投獄されたという『アレクセイ』は、今何を思っているのだろうか?
ユリウスは窓ガラスに指を伸ばし、滴る水滴を優しくはらった。
「実は……、アナスタシアに会った時にテロに遭ったでしょう。彼女の名をあなたに言うと、その時の事を思い出して怖い思いをさせてしまうから言わない様に、って兄上に言われていたんです」
「そう、なんだ。レオニードが……」
「……はぁ、ぼくって駄目だなぁ」
頬を少し染め、くしゃくしゃと髪をかき混ぜる仕草が幼い頃のままで、ユリウスは少し笑った。
「色々と気づかってくれて、ありがとう。大丈夫。怖い思いは思い出してないから」
兄の言いつけを守れず、ユリウスを不安にさせてしまったと思っていたのだていたのだろう。リュドミールは、柔らかな笑顔を見せた。
最近は特に大人びた振る舞いや言葉遣いをするようになったリュドミールだったので、ユリウスはなんとなく見えない距離を感じていた。
けれどやはり中身はまだまだ少年っぽさを残している。こんな風に笑うとユリウスがよく知るリュドミールだ。
「よかった。きみがまだ『小さなリュドミール』で」
「ああっ!それは言わないでって言ったじゃないですか!」
「フフッ。それは前のぼくに言ったんだろう?残念!今のぼくはそう言われたのは覚えていないよ」
いたずらっぽく目を見開き、笑って言うユリウスにリュドミールもつられて笑った。
「……!もう、あなたってひとは」
二人は顔を見合わせクスクス笑い合った。