その先へ・・・3
「ええっ、あの物置小屋壊してしまうの?」
ヴェーラが青白い顔色のままいつもと変わらぬ生活を始めたその夜、レオニードも帰宅した。
軍服を脱ぎ、書斎でくつろぐレオニードのもとにリュドミールは訪れた。
ヴェーラがやっと部屋から出てきた事や、なんとなくいつもとは様子が違っている邸内の事などを兄に話している中で、裏庭の古い物置小屋が急遽取り壊される事を知った。
物置小屋は、2日前から近づくのを何故か禁じられていた。
「どうしても壊さなくてはいけないのですか?」
物置小屋はリュドミールの絶好の隠れ家であったのだ。
「またすぐ新しい物置小屋を建てる。あそこはもう古いゆえ危険なのだ」
リュドミールは新しい物置小屋の事を聞きソファーから勢いよく立ち上がった。
「うわぉ!新しい物置小屋!やった!レオニードにいさま、早く作ってね。ぼく早く遊びたいな」
「物置小屋は遊び場ではないぞ」
「へへっ!はぁい、わかってます!そうだ!ねぇ、にいさま。もうあのひとと遊んでもいいですか?」
「ヴェーラはなんと言っているのだ?」
「……おねえさま、あまりお話してくれないの。まだお風邪がちゃんと治ってないって言っていましたけど」
「そうか」
「にいさまから聞いてもらえませんか?」
「……おそらくわたしとはもっと話したくはないだろう」
「えー。じゃぁ、まだあの人と遊んではダメなの?」
「そうだな。もう少し様子をみなさい」
ユリウスと遊べる許可をもらえず、リュドミールは肩を落とした。
「あーあ、つまらないな。おねえさまともあまりお話できないし、あのひととも遊べないなんて」
レオニードは小さな弟の頭をポンと優しく叩くと、ソファーに深く腰掛けた。
「あれとよく遊んでいたそうだな。どんな事をしていたのだ?」
ぱぁっとリュドミールの顔が紅潮し、兄の隣に座り楽し気に話し出した。
リュドミールが話す記憶を失う前のユリウスとの数々の武勇伝……。
庭のまだ細い木に登って折ってしまい、ヴェーラに大目玉をくらった事。
二人でフットボールに夢中になり、窓ガラスを何枚も割ってしまった事。
そして、アレクセイ・ミハイロフと遭遇したきっかけを作った危険なかくれんぼ。
そのどれもが自分に対する挑戦の様に思えた。
だが、どれもリュドミールにとっては楽しい記憶である様だった。レオニードは、楽し気に話す小さな弟の話をゆったりと聞いてやっていた。
「あのね、それでとっておきの面白い話をしてくれたんだよ。『オルフェウスの窓』っていう不思議な窓の話だよ」
「『オルフェウスの窓』?」
聞きなれない言葉にレオニードの眉がピクリと動く。
「うん、あのね……」
リュドミールは姉に話したと同じ事を兄にも話して聞かせた。
レオニードはいつものポーカーフェイスは崩さずに話を最後まできいてやると、お茶を少し飲んだ。
「その様な話、信じるものではないぞ。伝説やら、怪しげな妖術やら……、とかく愚かしい者が現実から逃れたい時に信じる事。愚かな女達がそれによって血迷っていく様をわたしは散々見てきた故」
……リュドミールは、兄の言ってる事がまだ理解出来ずにいた。
レオニードは、フッと笑い小さな弟の柔らかな頬を優しく手のひらで包んでやった。
「すまぬ。まだ難しかったな」
すると、ノックの音がして書斎にロストフスキーが入ってきた。宮廷からの呼び出しを受けた旨の報告をしたロストフスキーが出て行った後、レオニードは一つため息をつき、リュドミールに優しい瞳を向けた。
「これから出かけねばならん。ヴェーラを呼んでくれるか?」
「はあい」
リュドミールは姉の部屋へと向かった。
「『オルフェウスの窓』……か」
テーブルに置かれていたお茶を一気に飲み干すと、宮廷に向かうための支度を始めた、
レオニードはそれからすぐ、セミヨノフスキー連隊を率い、モスクワへと向かって出発して行った。
レオニードが部隊をひきつれモスクワに赴き、見事革命軍を一網打尽にしてペテルスブルグに凱旋してきた時には、もう邸内で不幸な出来事を口にするものはいなかった。
ヴェーラも気力を回復させ、何もなかったかのように邸内の事を取り仕切っていた。
しかし、リュドミールだけは幼いながらも姉の異変に気が付いていた。
邸内でも、たまに外出する際でも、艶やかな色のドレスは一切身に着けなくなったのだ。
もともと派手な色合いや形を好む方では無かったが、年相応の明るい色合いのドレスを身に着けていた。
それが、落ち着いた……黒や濃紺など年齢が上の貴婦人が身に着けるようなドレスばかり着るようになった。
「もっときれいなドレスを着ればいいのに。どうしてきれいなドレスを着ないのですか?」
ヴェーラに直接聞いても、姉は寂しく微笑むだけだった。
使命の為には一人の女の真実の愛さえも利用する。
そんなエフレムの事を憎むことでかろうじて立っていられる様になったヴェーラであったのだが、心の奥底では彼の為に涙を流し続けていた。
そして……
彼の為に一人ひっそりと喪に服していたんだ、とリュドミールが気が付いたのはもっとずっと後の事であった。