BYAKUYA-the Withered Lilac-4
あの時、ツクヨミがビャクヤと喧嘩別れした日、窮地に陥ったツクヨミを、ビャクヤは救った。その時、不意打ちとはいえ、自我をほとんど失っていたゾハルは、糸で捕らえられ、大きな痛手を負わされた。
その後ゾハルは、更に逆上してビャクヤに襲いかかるのではなく、一目散に逃げていった。彼女が恐れを覚えた可能性も否定できない。
「ふあー……あ……姉さん。どうするんだい? 僕は満腹で眠いんだけど……」
ビャクヤは、いかにも眠たげなあくびをし、大きく背伸びした。
ーービャクヤを疲弊させるのもよくないわね。この子には、ゾハルを倒すという大役がある。普段のビャクヤなら、『偽誕者』相手に遅れを取るようなことはないでしょうけど、今のような状態なら、その限りではないでしょうねーー
「そう、ね。帰りましょう。あなたに疲れられては困るから」
「おや?」
ビャクヤは少し、驚いたような顔をする。
「さっきといい。僕の体を気遣ってくれるなんて。ハハハ。最近の姉さんは優しいねぇ」
「勘違いしないで。あなたは私を守る剣であり盾。さっきも言ったけど、いざというとき役に立たないようじゃ困るの。心しておきなさい」
「なんにしたって。姉さんが僕を想ってくれているなら。それだけで僕は嬉しいよ。姉さんが素直じゃないからさ。僕はそのぶん素直でいようと思うんだ」
普段からどこか遠くを見るような、虚ろな眼をしているビャクヤであるが、人並みな笑顔になることはできる。笑顔になれるということは、必然的にその疲れたような眼は細くなる。
見ている方まで憂鬱な気分になりそうな瞳が閉ざされる事で、ビャクヤの生来の、よい意味でほっそりしており、色白な顔が、儚げながらも綺麗に見える。
ツクヨミにとって、彼のその表情は、長く見るに堪えないものだった。
「バカな事を言ってないで帰るわよ! 帰ったら私の夕食の準備とお風呂の用意をするのよ。いいわね?」
「あっはは。まるで亭主関白だね。でもこれじゃ。僕の方がお嫁さんだけどね。あははは……!」
「……っ!」
ツクヨミは言い返すことができないのだった。
それからも二人は、『夜』に出現する『深淵もどき』を見つけては、作物を食い荒らすように集る虚無を狩った。
どんな相手であっても、ビャクヤの鉤爪の前には無力であり、ビャクヤの腹を満たす餌食となっていた。
毎夜『深淵もどき』を探し出しては、集まる虚無を倒す。そんな『夜』を続けて過ごすものの、ツクヨミの目的の彼女は現れなかった。
ツクヨミはもちろん、そうすぐにはゾハルに会えないであろう事は覚悟していた。
そのはずであったが、こうも外れが続くようでは、さすがにあらぬ不安を抱いてしまう。
一度目の邂逅から、まだそれほど日にちは過ぎていない。この辺り、少なくとも、この街の外には出ていないであろう事は予想できる。
ゾハルは今や、力を得るために顕現を手当たり次第喰らう、虚無とほとんど変わりない存在となっている。
そんな状態の彼女が、たとえ本物ではないとはいえ、顕現の溢れ出す『深淵』を放っておくとは思えない。
しかし、姿を見せない理由もまた考えられる。ビャクヤに恐れを抱いている事である。
不意打ちに近かったとはいえ、ゾハルがビャクヤの罠にかかった時、ゾハルはかなりの深傷を負い、その怒りに任せて襲いかかるかと思いきや、一目散に逃げていった。
本能のままに暴れるゾハルが選んだ行動というのが、命の危機を察知して逃げることだったのだ。本能に訴えかけるほどの恐怖を与えてしまった以上、ビャクヤの気配を察知すると同時に逃げるという状態にあると考えられた。
もしもこの状態が考えられるならば、ツクヨミの策は成就し得ない。
ーーゾハル。あなたは今、どこに……?ーー
今宵もまた出現しているであろう、『深淵もどき』を探し、ビャクヤとツクヨミは『夜』を進む。
しかし今宵は、いつもと『夜』の雰囲気が異なっていた。
「うーん。何だか今日は暑くないかい。姉さん……?」
ビャクヤは、はだけたシャツの胸元をはたはたと扇ぐ。
この『夜』の環境は特殊であり、いつ来ようとも、全く苦に感じない気候であった。
雨などが降ることもほとんどなく、日中が猛暑であった日でも、その『夜』はともすれば、肌寒く感じるほどに気温が低く保たれているのである。
そのはずが、今宵は辺りが熱気に包まれていた。それも、異質な力を感じられる熱気であった。
「これは……確かにおかしいわね。ただならぬものを感じる。今夜の『深淵』の方向ね。ビャクヤ、気を付けて進みましょう」
「はーい。僕から離れちゃダメだよ。姉さん」
二人は、異常な熱気に包まれた『夜』を進んでいく。
今夜に出現した『深淵もどき』は、前に出現していた児童公園とは反対方向に位置する、雰囲気も逆の長閑な公園であった。
その公園は、街から離れたところに位置するため、騒音とは無縁であった。そしてどういうわけか、『夜』においても虚無の出現が極端に少なく『偽誕者』たちの間で『静寂の公園』と呼ばれていた。
そんな場所が今夜は、その名前とは全く異なった空間と化していた。
この『夜』の中核たる顕現の『深淵もどき』は、『静寂の公園』に現れており、そこから溢れ出る顕現を求めた虚無が、群を成していた。
『深淵もどき』を背に、少女が一人、虚無の群れの前に立ち塞がっている。
少女は、赤と白を基調とした洋風の装束に身を包み、緋色に金の縁取がされたマントを羽織り、左腕には丸い盾を装着している。
毛先をくるくる巻いた純粋な金髪で、すぐ傍まで迫った虚無の群れを見据える眼は、深紅の輝きを放っていた。
少女は、大小様々で途轍もない数の虚無を前にしながらも、その表情は余裕そのものだった。それどころか、見下しているかのような傲慢さも窺える。
少女は徐に、空いている右手を宙に翳した。
「いでよ、我が顕現たる火剣、『ファイアブランド』!」
少女の翳した手のひらに炎が立ち上った。その炎の中には、朱色の刀身を持った小剣が浮かんでいる。
少女はその剣の柄を握り、一振した。刃の通った軌跡に炎が上る。
「来い、犬ども! 一瞬で片付けてやる!」
今なお鍛刀の過程にあるのか、と思えてしまうほどに真っ赤になった切っ先を向け、少女は発した。
先陣を切ったのは、宙を浮遊する小型の蝙蝠のような姿をした虚無であった。
それは、本物の蝙蝠と同じように素早く空を飛び、甲高い鳴き声を発しながら少女に襲いかかった。
「ふんっ!」
空間に剣閃と共に炎が舞った。少女に襲いかかった虚無は、まさしく、飛んで火に入る夏の虫の如く燃え尽きた。しかし、虫とは違い、その身は消し炭も残すことなく消えてなくなった。
少女は再び、切っ先を虚無の群れへと向ける。
「さあ、次に灰になりたいやつはどいつだ!?」
意思を持った存在ではないが、虚無の群れは一体では敵わないと考えたかのように、今度は複数でかかっていく。
数は五体である。空を飛ぶもの、地を這い回るものと約半々に分かれている。
速さは僅かに、空を行く虚無の方が速い。
「剣よっ! ローエンシュナイデ!」
少女は剣に炎を纏わせた。燃焼する刃はその輝きを増す。
作品名:BYAKUYA-the Withered Lilac-4 作家名:綾田宗