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【弱ペダ】サイワイノセカイ

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 日頃からよく話しかけてくる女生徒が、新開の顔を覗き込む。
「ああ、うん…。大丈夫…」
 だが、新開はするりと思考の向こうに流し、返事もいい加減に返して、ただただ、おかしな光景を見た廊下の方を見ていた。
 そして、自分が何を見たのかが、はっきり頭に染みてくると、途端に慌てた。
「あ…」
 そうだ、知っている光景だ。箱根学園の廊下に見えたんだ。
 そう見えた理由はただ一つ。
「やすとも…?」
「なんだよ。鳩が豆鉄砲食らったみてーな顔じゃナァイ?」
 荒北が廊下に寄りかかって、新開の顔を見てニヤリと笑った。
 箱根学園の校舎で、廊下で、何度も何度も見た光景だ。
 だから一瞬、過去へ飛んでしまったのかと、いや、荒北に会いたいばかりに、幻でも見たのかと思ったのだ。
「な…」
 何でここにいるのか、と聞きたかったが、言葉が出なかった。
「アァ? マァ、なんだ……。急に暇になったんだよ! 授業がなくなったからァ!」
 ちっ、と靖友が舌打ちをしながら、頭をガリガリと掻く。だが、その顔が少し赤くなっているのを、新開は見逃さなかった。
 ぐわ、と新開の内から形容しがたい気持ちが湧き上がってくる。そのまま自分の中で膨らんで激しい奔流となって暴れ出しそうだった。激情のままに荒北を深く激しく愛したい。泣いても嫌がっても悪態を吐いても、繋がったまま離さない。
「友達?」
 新開の様子を見ていたのか、知り合いの生徒たちが話しかけるような、自分の中で確認するような微妙な呟きを漏らす。その声で我に返った。本人が目の前に居るのに、妄想に浸ることはない。それに……。
「あのさ、あのさ。ちょっとお茶でもしようよ。えーと、新開君のお友達? も一緒にどう?」
「それ良いね! ねぇ、大丈夫だよね?」
 生徒たちが荒北が誰なのか知りたそうに話しかけてくる。
「悪いけど、俺たち用あるから」
 新開はにべもなくそう言って荒北の手を取ると、行こう、と構わず歩き始める。
「オ……、オイ……」
 生徒たちを気にしたのか、強引に引っ張っていく新開に文句でも言いたいのか、荒北が何かを言いかけた。が、新開は答えずに荒北を引きずるようにしてさっさと校舎を出た。
 誰にも見せたくない。
 いや、二人の時間を邪魔されたくなかった。折角荒北が会いに来てくれたと言うのに、二人きりにならなくてどうすると言うのだ。
「オイ……。オイ! このダメ四番!」
 新開が掴んだ手が乱暴に振られて、はっと気が付く。
「イテーよ。それに傘ァ! 雨降ってんだろーが」
 風邪引いてる暇ねーだろ、と荒北がビニール傘を片手で開こうと苦戦していた。新開の借りているアパートは、大学から少し距離がある。そんな道のりを上着がしっとり濡れる程度には雨に打たれて歩いていたようだ。髪の毛から滴る雨が襟元に入って来て、ぞくりと冬の寒さを感じさせた。
「悪い……」
 新開が強い力で握りしめていた荒北の手を離す。
「で? 用ってナニィ?」
 ぽん、と言う音がして傘が差しかけられる。その持ち主がふーん、そうなんだ、と問い質すような、俺が居るのに? と言いたげな顔で尋ねてくる。
「あ……、いや……」
 新開はとっさについた嘘を白状した。
「おめさんが居るから、早く二人きりになりたいと思ってさ……」
 ふぅん、と荒北は素っ気ないような答えをした。が、その顔は真っ赤で、新開から視線を逸らしてどこともない場所を見ている。
「家……。あ、その……」
 新開のアパートに誘おうと口を開いたが、最後まで言えなかった。新開を訪ねてくる時は当たり前に来ると言うのに、今日ばかりは露骨に情事の意味を込めて誘っているような気がしたからだ。これまで大事なレース前以外は、新開を訪ねてくれる時は、あるいは荒北の所へ行くと言うことは、必ず逢瀬があったにも拘らず。
「意識しすぎじゃなァい? 今更だっつーのォ!」
 大きめのビニール傘でも、男子大学生が二人並んで入るのは流石にキツイ。常に肩が触れている状態で、荒北がハッ! と笑ってごつんと肩をぶつけてきた。
「会いたいって思ってた所に、靖友が現れたからさ」
 一度離した手を、再びぎゅ、と握りしめる。
「お、おう……」
 荒北が戸惑ったように答えて、そっぽを向く。その顔が赤い。今日何度目だろう?
「休講だったしィ? まぁ……、良いかなって思ったんだよ。今日くらいは!」
「会えて嬉しいよ」
 新開が荒北の耳へ囁くと、びくりとしたようにその身体が震えた。
「オイ! くすぐってーよ! てか、外!」
 そう文句を言って外そうとする手を、逃がすまいと少し力を入れて握る。そして、改めて思った。靖友が居なくなるなんて、耐えられないと。離れて、暫く会えないだけで、我を忘れてしまいそうだったのに。
 そして、それ以上に。荒北がたまたまとは言え、こんな日に自分から新開を訪ねて来てくれたことに、深い喜びを覚えていた。
「イテーよ」
「ごめんごめん」
 そう答えて少し力を抜くが、離す気は毛頭ない。それをもぎ離そうとする荒北と、離さない新開の攻防が展開される。半ば本気、半ばじゃれ合うように歩くその二人の様子を、大家の娘が驚いたような顔で見ていた。
 その顔を目の端に止めて、浮かれたような行動をしている自分が、バレンタインと言うイベントに、ずいぶん拘っていたことを改めて思い知らされた。
 これまではチョコレートが下駄箱、教室の机、はてはロッカーなどのあちこちから出てくる日で、荒北と付き合ってからはチョコレートとともに示される女性からの気持ちを断る、一種気の重い日だった。その一方で、素直なチョコレートを本命からは貰えない日でもあった。とは言え、捻りに捻ったようなチョコをくれるのが、荒北らしくそれも愛おしく嬉しかったのだけれど。
 そんな思い出があったからだろうか。そう言えば、思わずチョコレートを買っていた。女性がほぼ九割を占めているどこぞの百貨店の売り場だったが、その場の店員も客も、誰も新開がハート型の如何にもバレンタイン仕様のチョコレート詰め合わせを買うことに、奇異の目を向けたりしなかった。それどころか、店員は保存方法に賞味期限を丁寧に説明したうえ、手渡すための紙袋を別につけてくれるという親切ぶり。その機械的とも、無関心とも言える冷静な対応にこれが都会、東京か、と少し感心したくらいだ。
 それとも、昨今は男性でもバレンタインのチョコレートを買ったり作ったりして、男女関係なく贈るらしいと言うどこが情報元か判らない話は、意外と浸透しているのだろうか。
 ともあれ、大切な存在に贈ろうと準備したチョコレートが家にある。この日にふさわしく、想いを告げるために。
 そして、互いにこの後のことを予感してもいる。二人の想いを確かめるために。
 二人の時間を邪魔しそうな可能性は、今のところない。今この瞬間、世界は二人のためにあるようだった。
 ――愉快なるかな。
「見てんじゃねーよ!」
 新開は照れて真っ赤になった顔を見せまいとする荒北を愛おしく見て思う。
 ――ひばりは空を飛ぶ。愉快なるかな、愉快なるかな。