彼方から 第三部 第五話 & 余談 第二話
だが、バンナの操る布は今にも、その先に巻き付けた剣をイザークに向けて振り下ろそうとしていた。
「くっ!!」
ジーナを抱え、壁際に避難していたゼーナが、咄嗟に小瓶をバンナに投げつける。
「うっ!!」
咄嗟だったにも拘らず、ゼーナの投げつけた小瓶は狙い違わず、バンナの額を捉えていた。
「てっ……てめえっ!!」
ついさっきまで、ベッドに体を横たえた姿を見ていた。
辛そうで、弱々しい姿が、瞼に浮かぶ。
あんな状態で、剣を振るのも儘ならないだろうに、それでもノリコを助ける為に……
無理を承知で来ただろうイザークに気付きながら、彼に注意を向けることが出来なかったことに、バラゴは焦る。
その至らなさが、この結果を……イザークに左腕を失わせる結果を、招いたのだということに――
ゼーナの投げつけた小瓶が当たりバンナが怯んだ隙に、バラゴはすかさず、剣を横に凪いでいた。
「チィッ!!」
バラゴの剣先を、紙一重で避けるバンナ。
「ガーヤッ!」
ゼーナはもう一つ、投げつける為の小瓶を手に握り締めながら、妹の名を呼び叫ぶ。
「ガーヤッ! イザークが……っ!!」
その、切羽詰まった必死の呼び掛けに、襲撃者の空けた壁の穴から出て、今正に追い駆けようとしていたガーヤは、足を止め、姉を振り返っていた。
***
「おれに……」
体が怠く重い……熱もある、いつも通りの動きなど、とても出来ない。
だが敵は、おれがそんな状態にあるのを見越して、ノリコを攫いに来た……
無理を承知で――いや、足手纏いにすら成りかねないのを承知でノリコを、助けに、来たのに……!
眼の前で『奪われた』。
攫われながら、ノリコは『来ちゃダメ』と、おれを案じて……
腕が、熱い……痛みしか感じない。
おれの腕一本失った程度でノリコが助かるのならそれでいい……
だが――だが……!!
「おれに構うなっ!! ノリコを……っ!!!」
ノリコを……
おれは、傷つけたままなのに――!
ノリコの気配が遠ざかる――連れ去られてしまうっ!
やめろ……ノリコをどこに連れていくつもりだ……
おれに構うな!
おれの体など、腕など……命など――どうでもいい。
動けぬおれの代わりに……頼む……ノリコを……ノリコを……!!
血が、失われる。
膝が、崩れてゆく。
不安げに、心配そうに部屋を覗き込んでいた彼女の顔が、浮かぶ……
イザークは有りっ丈の声でそう叫び、左肩を押さえたまま、動けなくなっていった。
***
「おりゃあっ!」
トラウス兄弟の弟が、兄の乗る馬の背に向け、身動きの取れないノリコを軽々と持ち上げる。
「きゃあっ!」
乱暴に、優しさの欠片もない扱われ方に、ノリコは成す術もなく、ただ、悲鳴を上げるだけだった。
「ようしっ、行くぜっ!」
荷物のように彼女を受け取り、兄は意気揚々と勝鬨を上げる。
馬を繰り、襲撃者たちはあっという間に、ゼーナの屋敷を後にしていた。
「ノリコッ!」
駆けだした馬の後を追い、バーナダムが屋敷から飛び出してくる。
「ノリコッ!!!」
通行人が、バーナダムの血相に慌てて道を譲ってゆく。
後先も考えず、ただ、追い駆ける。
頭の隅を馬の姿が過ったが、今更、厩に戻っていたりしたら、奴らの姿を見失ってしまうかもしれない。
ノリコの姿を……
「バーナダム、戻れっ!! 闇雲に追い駆けても、何にもならんぞっ!!!」
ノリコが攫われ頭に血が上り、周りが見えなくなっているバーナダムに、アゴルは必死で怒鳴り、呼び掛けたが、その声が彼に届くことはなかった。
仮に、届いていたとしても、恐らくバーナダムはアゴルの言葉を無視して、追い駆けて行ってしまっていただろう。
大切な人を、助ける為に……
バーナダムに倣い、自分まで、奴らを追い駆けて行くわけにもいかない。
何より、人間の足で馬に追い付けるわけがない。
――とにかく馬がいる!
――聞き込みで後を追っていくしか……!
現状が、危機的状況にあることは分かっている。
狙われていると分かっているノリコを、守り切れなかった。
だがそれに落ち込んでいる場合ではないし、無闇に追い駆ければ良いわけでもない。
冷静に状況を把握し、判断できるだけの精神的余裕が、今はまだ、自分にあることに、アゴルは少し安堵していた。
――……!?
屋敷に取って返そうとして振り返り、不意に気づく。
――そういや、ガーヤとバラゴは?
確かについさっきまで、自分の後ろに付いて、一緒に追い駆けて来ていたはず……
あの二人が、ノリコを助けに来ないはずがない。
アゴルは疑問符を頭に浮かべたまま、とにかく屋敷へと駆け戻った。
***
バンナの操る布が、バラゴの足に強く巻き付いてゆく。
振り解く暇も、剣で切り裂く暇も与えず、バンナは布を勢いよく引き寄せた。
「うわっ!!」
文字通り足元を掬われ、バラゴは床に強かに、背中を打ち付けていた。
床に寝転がる巨体に向けて、バンナは布を操り、イザークの腕を切り落とした剣を突き立ててゆく。
「バラゴッ!」
キィンッ!
間一髪、姉の声に戻ってきたガーヤが、バンナの剣からバラゴを護ってくれていた。
「チッ! 二人がかりですか!」
今一歩のところで、いつも止めを刺す機会を奪われ、バンナはイラつきに顔を歪ませ、睨みつけてくる。
――イザーク……!!
ガーヤの視界に、イザークの姿が入る。
床に膝を着き、有るはずの腕を失くした左肩を押さえ、俯く、イザークの姿が……
――な……なんてこと……
――腕が……
肩口からはまだ、血が滴り落ちている。
切り落とされ、床に転がる腕は、血溜まりの中でピクリとも動かない。
ノリコのことも気に掛かるが、今は――イザークの身が案じられる。
このまま放って置いては、いずれ失血で、意識どころか命が危ない。
だが、手当てをしたくとも、眼前の敵を何とかしなくては、それも儘ならない……
「仕方がないね、今日のところはこれで引き上げるよ」
多勢に無勢と見たのか、バンナはそう言いながら操っていた布を戻すと、忌々しげな表情を見せる。
「だが……」
バンナはイザークの背中を睨みつけると、
「その腕一本で許す気はないからね」
優越に歪んだ瞳を、
「あの娘を生贄として、生き血を全て搾り取り、黙面様に捧げたら……われらは今よりもっと、強力な力が与えられる」
欲に曲がり切った笑みを見せ、イザークを追い詰めるかのように吐き捨てていた。
―― な……に ――
イザークの瞳が、大きく、ゆっくりと、見開かれてゆく。
「その時になったら、再びおまえの前に現れるよっ!」
バンナは勝ち誇ったかのように捨て台詞を吐き、嘲るような笑みを浮かべ走り出していた。
「くっ!」
ガーヤとバラゴも、後を追う為に体勢を立て直し、走り出そうとした時だった。
バチッ!
眼も眩むような閃光と共に広間に響く、何かが弾けたような、大きな……音。
作品名:彼方から 第三部 第五話 & 余談 第二話 作家名:自分らしく