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彼方から 第三部 第六話 & 余談・第三話

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 上品な装飾が施された扇で、エイジュが辟易した表情を隠しながら溜め息を吐いている。
「こういう場は、苦手ですか?」
 クレアジータの、少し困ったように見える片眉を潜めた笑みに、エイジュはフッと、愁眉を開いた。
「苦手と言うよりは、場違いな気がしてならないだけかしら……それよりも……」
 軽く、肩を竦めてみせながら、そう言ってもう一度溜め息を吐くと、
「この、香水の香り――こちらの方が……申し訳ないけれど、鼻が曲がってしまいそうだわ」
 扇で口元を隠しながら少し顔を寄せ、半分お道化た様に思い切り眉根を寄せて微笑み、囁く。
 二人は、舞踏会場の壁際に居り、噂話に余念のない貴婦人たちや、腹の探り合いや化かし合いをしている集団とは、かなり離れた位置にいるのだが、それでも、混ざり合いながら人の動きに合わせて漂ってくる香水の香りからは、逃れられない。
 化粧品の香りも共に混じってしまっている為、『臭害』と言っても差し支えないほどの害を、エイジュは被っていた。
「確かに……私もいくらか慣れてはいますが――今夜のようにこれだけ人が集まると……」
 彼女の言葉に、クレアジータも思わず苦笑していた。
「まぁ、仕方ありませんね。香りは身嗜みの一つですから……男性も女性も、身分や肩書を持つ者は皆、身に着けています。私も、例外ではありませんから」
 そう言って、クレアジータは肩を、少し大袈裟に竦めてみせてくれた。
 彼の気取らない気遣いに、ふと、口元が緩む。
「そうね――あたしも今夜だけは、人のことは言えないわね……」
 エイジュは自嘲を籠めた笑みをクレアジータに向けた後、肩越しに後ろを見やっていた。
 まるで付き人のように、少し離れて佇む、ライザの姿が眼に入る。
「それに、香水よりも、この煌びやかな女物の舞踏服の方が、厄介ね――動き辛いこと、この上ないわ」
 態と、声を少し大きくして、
「何しろ普段は、動き易い男物の服しか着ていないものだから……けれど、『渡り戦士』として依頼を受けた以上、これも仕事ですものね――致し方ないわ」
 心にも無い不平を漏らすエイジュ……
 クレアジータも同じように、少しだけ首を曲げて、視界の端にライザの姿を映し込む。
 同じ視界の中に、ほんの少し上向く、エイジュの唇が入る。
 本来なら、『美しい』と思える笑みなのかもしれない。
 だが、クレアジータはその笑みに少し……得体の知れない寒気を感じ――

 ――……この感覚は、前、にも――

 もう、十年以上も前の記憶が、蘇ろうとしていた。
 
          ***

 エイジュの言葉に、無感情の笑みが微かに反応する。
 気配を殺し、少し離れたところで佇んでいるだけだったライザが、動きを見せた。
 静かに、音も無く踵を返すと、人々の隙間を縫うように進み、何処へともなく姿を消していた。

 ――なるほど……これが君の言っていた『餌』というわけですか……

 そっと、エイジュの横顔を見やる。
 迎えに来た馬車に乗車する直前、彼女が言っていた言葉を、思い返す。

 『企みに嵌められる前に、こちらから態と餌をチラつかせようと思うのだけれど……』

 つまり……向こうが喜んで喰い付きそうな言動をすることで、『企み』の主導権をこちらが握ってしまおうと――そう言うことなのだろう。
 相手が行動を起こしてから対処するのでは、『後手』に回ってしまう。
 エイジュはそれを忌み、『先手』を取ることを選んだのだ。

「餌に、喰い付いてくれたみたいね……」
「そのようですね……」
 事を、愉しんでいるように見える笑みが、浮かんでいる。
 いつもの穏やかな笑みとは、まるで違う笑み……
 それに――『気配』、或いは『気』というものなのだろうか……そんなものも感じられる。
 寒気を伴う……冷たい、気配――

 ――あの時感じた『もの』も、きっと、この『気』だったのでしょう……

 血気に逸った若かりし頃の自身が、蘇ってくる。
 無意識に、自嘲の笑みが零れる。

 ――しかし、だからこそ、エイジュと出会えたのかも……知れませんね

 鮮やかに脳裏に浮かぶ、十数年前の記憶。
 その記憶に捉われる寸前、屯っていた人の群れが動くのに気付き、クレアジータは小さな溜め息と共に、古い記憶を押し込めていた。

          ***
 
「臣官長殿!」
「これは――ドロレフ大臣……今宵はこのような会にお招きいただき、大変、痛み入っております」
「いやいや……日頃、何かと世話になっている臣官長殿の労を労わせて頂こうと思いましてな……いつも通りの夜会では『華』がありませんのでな、同伴者を伴っての『舞踏会』とさせて頂いたのですが……」
 数人の取り巻きとライザを伴い、まるで、何処にも逃がさないとでも言うように、二人を取り囲んでくるドロレフたち……
 貴婦人のように取り澄まし、扇を口元に当てたまま、クレアジータの隣で大人しく立っているエイジュを、あからさまに、品定めをするかのように見据えている。
 その視線からは、人を肩書や身分で差別し、見下す役人の悪癖が見て取れる。
 恐らく……『卑しい、渡り戦士の癖に』とか、『どうせ、その場凌ぎの同伴者にすぎん』とか、『貴族の者でもないのに』……などと、思っているに違いない。
 その上……
「このようにとても見場の良い同伴者がおられるのに……」
 ドロレフはそう言いながら再びクレアジータに視線を向け、挑発するかのような笑みを口元に浮かべると、
「どうして舞踏の輪の中に入られないのですかな?」
 鼻先で笑い捨てながら、訊ねて来た。
 下卑た含み笑いと共に、頭の先から爪先まで、舐め回すかのように纏わり付く、ドロレフたちの視線……
 口元に浮かぶ好色そうな笑みに、エイジュは静かに深く、息を吐いた。

 ――まぁ……
 ――誰も彼も、分かり易くて良いのだけれど……

 これまでにも、そんな視線を幾度となく受けてはいるし、慣れてしまってもいる。
 だが、気持ちの良いものではないことも確かだ。
 それに……ドロレフの態とらしい大声に反応し、何事かと『好奇』に駆られ集まって来た野次馬たちの視線も、煩わしいこと、この上ない。

 大臣達の後方で、相も変らぬ張り付かせたような笑みを浮かべて立っているライザが、眼に入る。
 先ほど、こちらが『態と』聞かせた言葉を、意気揚々とドロレフに告げたのだろう。
 『見場が良いことだけが取り柄のような、卑しい渡り戦士の女』
 『舞踏服はおろか、女物の服すらも着慣れていない』などと、付け加えたかもしれない。
 こちらが恥を掻くのを、今か今かと、心待ちにしているかのようにも見える。
 
 ――さて……
 ――折角、餌に喰い付いてくれたのだから
 ――こちらも彼らの『企み』に
 ――乗ってあげないといけないわね……

 黙し、言葉を返さないクレアジータを、小バカにしたように見下ろしているドロレフ。
 エイジュは扇で隠した口元を小さく歪め、そっと、彼らからは見えないように、クレアジータの服の袖を摘まんでいた。

          ***

 ――さて
 ――どう、言葉を返せば良いものでしょうか……