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美夜(みや)
美夜(みや)
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小説版アマガミ ~森島先輩はそこにいる~

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 床に敷かれたカーペットが目の前に迫(せま)って来ては離れる。腕を曲げたり伸ばしたりする回数を重ねる度に、床が迫ってくる速度は遅くなる。視線を利き腕の方へ向けると、腕の筋肉が限界を訴えるように小刻みに震えている。
 僕はもうこれ以上はダメだと思い、一気に脱力して荒々しく倒れた。仰向けになりながら冬の凍てついた部屋の空気を吸っては暖かい空気に換えて吐き出した。
 僕の身体は、ここ数年の間で味わったことがないほどに疲れ切っていた。
 風呂に入ってこの体中に纏(まと)わりついている汗を流そうと立ち上がり、自分の部屋を出ようとした。
 するとドアを開けた瞬間、ちょうど美也が階段を上がり終わって自分の部屋へ入ろうとするところだった。
 美也は僕の姿を見るなり、
「うわぁっ、汗びっしょりじゃん!」
 と高い声で言った。
「部屋で何してたの? ……まさか……っ! にぃに、いくらお宝本が好きだからって……」
 そんなわけないだろ。
 僕は軽く美也をあしらって風呂に入りに行った。


 今日のシャワーは格別に気持ちがいい気がした。身体の奥に溜まっていた余計なものが下へと流されていくような、そんな爽快な心地だった。そんな気持ちになったとほぼ同時に、やっぱりこの努力は無駄ではないと思った。
 湯船に首まで浸かる。風呂に入るときは、まず腰を前にずらして一気に体を温めるのがいつもの僕の入り方だ。
 最近、こうして風呂に入っているとほとんど必ず、ある一点へと向かって思考が収斂(しゅうれん)される。日常の様々な雑念だけを綺麗に取り除いて、今の僕に必要なものだけが浮かび上がってくるように。
 ――初めてだ。
 今日、初めて森島先輩と一緒に帰った。
 今のこの気持ちをどう言葉にすればいいのか分からない。しかし、これまで遠くから眺めることしかできなかった非日常がすぐそばまで近づいてきているということは、何となく分かる。そしてその非日常を恵みのように与えてくれた先輩は、その代償なのか僕の思考を奪っている。
 ああして先輩と一緒に話していると楽しくて……一緒に帰っているこの時間がずっと続いてくれればいいのにと思った。このまま迷路にでも迷い込んで散々時間を浪費した後、二人で夜道を帰る羽目になればいいのにとさえ思った。
 濡れた手で濡れた髪をかき上げて背中を後ろにもたれながら、天井の端に目をやった。
 僕は先輩のどこに惹かれているんだろう。
 その自分への問いに、すぐさま「美人だから」という答えが反射のように返ってきた。それは納得のできる答えだった。しかし、それだけでは問いに対して満足な回答ができたという感じがしなかった。まさに今日、まさに夕方、先輩の歩く道を追いかけては付いて行きを繰り返して、ようやくのタイミングで話しをすることが出来たあの時、僕は森島先輩という人のどこが好きなのかが初めてはっきりと分かったような気がしたからだ。
 なぜ今まではっきりと頭に浮かんでこなかったのか自分でも不思議なくらいだ。少し考えれば、あれだけたくさんの生徒に好かれているのだから先輩の魅力は外見が良いからというだけではないと分かったはずだ。
 

 湯上りの、芯まで火照った上にしっとりと水気を含んだ体で、階段を登り、自分の部屋に戻った。
 その間「僕は森島先輩のどこに惹かれているのか」という先ほどの問いへの答えが、僕の頭の中で写真のように次から次へと過去の瞬間が浮き上がっては去って行きを繰り返していた。しかしそれは本当の写真のように視覚に訴えかけるだけでなく、声が聞こえ、息遣いや雰囲気、匂いを感じさせるものだった。
 僕が先輩の背中をストーカーのように必死に追って来たということに、最初から少しも疑念を抱こうとしないその表情。
 先輩がこれまでたくさんの部活に入っては辞めを繰り返してきたという話から香って来る、その清々しい自由の匂い。
 「年上をからかうもんじゃないぞ」と先輩が言った時の、その露骨に年上ぶったしたり顔。
 そして僕が誘うよりも先に「途中まで一緒に帰ろっか」と先輩が誘ってくれた時の、そのいかにも簡単そうに聞こえる、その軽々しさ。


 ベッドに座った僕は、これ以上目を開けているには肉体的疲労のためにあまりに眠く、精神的充足のためにあまりに満ち足りていたので、灯りを消して早々に眠った。


 その日の夜、僕は夢を見た。
 目の前に、女の人。
 その人は立っているかもしれないし、座っているかもしれない。
 僕は彼女と何か言葉を交わしている。
 しばらくして、その人は森島先輩なのだと分かった。
 見た目で先輩だと分かったというよりも、心でそうだと知った。
 繋がっている目と目。
 それによって僕と先輩、確かに心が通じ合っているのが分かる。
 僕が何か言葉を発する。
 それを聞いた先輩は視線を逸らす。
 しかし、それは拒絶ではないと瞬時に分かった。
 恥じらいと動揺。
 先輩が目を逸らしていても、言葉を発しなくとも、僕の存在は受け入れられているのを感じる。
 この高揚感。
 この満たされている感覚。
 今、僕と森島先輩は融け合って、一寸の隙もないほど交じり合っている。




 凍てついた空気の中で目を覚ます冬の朝は、正直、憂鬱だ。
 しかし、今朝だけは違った。
 覆っている布団がいつもより柔らかく感じた。抱きつきたくなるほどに。 
歯を磨いたり、朝食を食べたりする日常的な動作の中で、ちらつくように何度か自分の今の心の状態が透けて見える。その時に自分で驚くほど、いつもとは違っていた。
 今日の僕は幸福に包まれていた。幸せな液体が体の中を一杯に満たしている、そんな感覚に僕は朝から酔った。そしてその感覚の源は、紛れもなく、夜通し見たあの夢に端を発しているという確信があった。
 目を覚ましてしばらくは僕の心の中であの物語が続いているような気がして、さらに幸福感が滾(たぎ)った。


 学校へ登校しても、夢の物語はたびたび反芻(はんすう)された。その都度、こうして目を覚ましてしまったことが惜しく思われた。あれほどはっきりとした、精神的な、濃密な、人と心を通わす喜びを噛み締めたことはこれまでなかったと如実に感じられたからだ。
 外の世界へ目を向けた時が、もっとも今の僕の内部に訪れた神秘を分かりやすくしたかもしれない。
 見渡す限りの人、制服を着た生徒たちがとても美しく見える。容貌の美醜ではない。存在自体が、無条件に認められるべき美しさだと感じられたのだ。
 その明らかな例は薫だ。いつもであれば出来るだけ余計なエネルギーを使わないように、薫が襲撃してくる度、ぞんざいに取り合うのだが、今日の僕は自分のこれまでのそんな扱いを恥じた。
 これほど美しく、可愛らしく、周りに元気を与えるような女の子はそうそういるもんじゃない。そして薫がいなかったら今頃、僕のこのクラスでの学校生活はもっともっと無味乾燥なものになっていたに違いないと悟った。
「今日のあんたもなんか変」