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彼方から 第三部 第七話 & 余談・第四話

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 そう応えながら、少し、瞳の焦点が合っていない様子の女中を、見やっていた。
 理由は分からないが、部屋の状況から鑑みるに、どうやらドロレフは、かなり虫の居所が悪かったと見える。
 そこに丁度、女中が酒を持って来て、巻き込まれてしまった……と言うところか――
 運が悪かったとしか言いようがないが……

 ――しかし……

 恐らく、幾つものクッションを投げつけられたのであろう……女中の周りにかなりの数のクッションが、落ちている。
 柔らかく、大した重さもないものだが、男の力で思い切り投げつけられたら、それなりの衝撃はあるはずだ。
 当たり所が悪ければ、脳震盪ぐらい起こしてしまうだろう。
 未だに、床に座り込んでいる女中の様を見て、ローリの表情が歪む。
 仮に……彼女が何か粗相をしたのだとしても、国の重臣とは言え、ここまで好き勝手にやって良いわけがない。
 ローリは無意識に眉を顰め、事の顛末を求めるかのように、ドロレフ大臣に視線を向けた。

「――たかが警備隊員の癖に、何か、文句が有りそうな目だな……気に喰わん奴め。良いか? 使用人が粗相をしたから仕置きしているまでのこと……他に用がないのなら、早々に立ち去れ」
 ドロレフは下らぬと言わんばかりに鼻を鳴らすと、虫でも払うかのように手を振ってみせる。
「…………」
 だが、そう言われて簡単に引き下がれるものではない。
 どうしたものか、逡巡する。
 このまま、見て見ぬフリをすれば、我が身に災難が降り掛かることはないが……
 ローリは正した姿勢のまま、視線を女中へと、もう一度向けた。
「わ、わたしは――何も……」
 眩暈がするのだろうか……手は、額に添えたままだ。
 意識も、未だ、ハッキリとしていないに違いない……だからなのかもしれないが、女中は『何も……』と、呟いた。
 『何も、していない』と、そう続けたかったのだろう。
 ただ、言われた通りに、酒を持って来ただけだと……

 ――理不尽……ではないのか?
 
 そう思える。
 運が悪かったと――そんな言葉で片づけて良いものなのか?
 使用人だから、何をしても良いなどと、誰が決めたのか。
 国の重臣なのだから、何をしても咎められないなどと、誰が決めたのか。
 自身の心の底に湧く静かな怒りを、ローリは感じ取っていた。
「…………」
 無言で女中に歩み寄り、彼女を抱え起こす。
 その行為に驚き、見上げ、無言で首を振る女中に、ローリは笑みを返した。
「貴様……無断で何をしておる」
 ドロレフの詰問を半ば無視し、足下の覚束ない彼女に肩を貸し、
「怪我をしているようなので、手当てを……」
 振り向きもせずにそう応えると、そのまま部屋を出て行こうとするローリ。
「貴様っ! 誰がそのようなことをしろと命じたっ!!」
 ドロレフは、重臣たる自分を敬おうともしないローリに腹を立てると、手近にあった燭台を手にし、大きく振りかぶっていた。

          ***

 月が、中天に懸かろうとしている。
 やがて、舞踏会も終わる。
 時折流れる雲に月光が遮られ、迎賓館が暗闇に包み込まれる。
 強く吹き付ける一陣の風に雲が流れ去り、再び姿を現した月は、館の屋根に立つ人影を一つ、照らし出していた。

「この部屋ね……」
 舞踏服が風に靡く。
 足に纏わりつく舞踏服を直しながら、エイジュは屋根の際まで進むと、真下に見える窓を覗き込むように、しゃがみ込んでいた。
 
 ――やはり……
 ――邪気が入り込んでいる

 窓枠の隙間から、小さな黒い雲のような――あるいは霞のような『モノ』が入り込んでゆくのが見える。
 小さな邪気、一つ一つに、『目』と思しき二つの穴が開いている。
 恰も意思を持っているが如く、ドロレフたちが居る特別室へと、吸い込まれてゆく。

 静かに息を殺し、耳を澄ます。
 人の声が聞こえる。
 一人は若い男性、もう一人はドロレフ……
 微かに、若い女性の声も聴こえてくる。
 他にも数名の気配……恐らく、ドロレフの取り巻き連中だろう。
 エイジュは自身の気配を、流れる風、世界を包む大気と同化させると、まるで、舞い散る木の葉のようにバルコニーに降り立ち、部屋の者たちからは死角になる壁へと身を隠した。
 そっと、中の様子を窺う。
 ドロレフと――その取り巻き連中……そして、床に座り込んでいる使用人と思しき女性と、彼女に歩み寄ってゆく若い男の姿が眼に入る。
 部屋の惨状も……
 国賓や貴族などを宿泊させる為の部屋であろうに、その部屋の備品であるクッションが、見るも無残な姿を晒している。
 ドロレフの息が、かなり乱れているところを見ると、これを成したのはどう考えても、彼だろう……

 ――思惑通りに事が進まなかったからと言って、八つ当たりをするなんて……
 ――邪気の影響を受けてはいるのでしょうけれど
 ――これが、一国の重臣たる男の、することかしらね……

 エイジュは呆れたように一つ、溜め息を吐いた。
 視線を、上へと向ける。
 天井の隅……
 灯明の届かない暗がり……
 ドロレフや、取り巻き連中の頭上辺りに、邪気が佇んでいる。

 ――彼らの欲や負の感情に……惹かれたのね

 今、この邪気が、何処の国でも増えてきている。
 いや――意図的に増やされていると言っても良い。
 世界中に広まり、蔓延し、あらゆる物事、あらゆる事象……そしてあらゆる人々に、影響を与えている。
 その最たるものが『国の重臣』と言われる者たちだろう……

 『邪気』と『欲』、『負の感情』は、互いに影響を与え合う。
 邪気の元は欲や負の感情であり、欲や負の感情は邪気によって膨れ上がってゆく。
 満たされなかった欲……
 癒しきれなかった負の感情や想い……
 未練を残し、負の思いを宿し、死した人の『気』が――闇の世界に溜まり、留まり切れなくなって漏れ出てくる。
 『邪気』として……
 通常であれば、留まり切れなくなる程、負の念が闇の世界に増えることはない。
 時は掛かっても、浄化されてゆくのだ……ゆっくりと。
 だが、今は違う。
 長い年月を掛けて、その流れを乱している『者』が居る。 

 ――この世界の理を
 ――乱す、者……

 ――……戦争に、依って

 世界の理を乱している『者』を、『元凶』を倒せば、時間は掛かるだろうが『理』は元に戻ってゆくだろう。
 それは分かっている。
 だが……

 ――それは、あたしの役割ではないわ……

 ……脳裏に、二人の姿が浮かぶ。
 イザークと、ノリコの姿が……

 エイジュは想いを馳せるようにそっと瞳を伏せた。

「貴様……無断で何をしておる」
 ドロレフの、苛立ちの籠った声音に顔を上げ、想いを振り払うように首を振り、一つ、息を吐いた。
 再び、特別室の中へと、眼を向ける。
 使用人の女性に歩み寄っていた若い男が、彼女を抱え起こそうとしているのが見える。

 ――服装からして、警備員……と言うところかしら

 女中を抱え起こした警備の男は、どうやらそのまま、彼女に肩を貸して部屋を出て行くつもりのようだ。
 背中を向けたまま、ドロレフに言葉を返している。