その先へ・・・5
(5)
「なぁ、アレクセイ」
二人きりとなった事務所に静かなズボフスキーの声が響く。
「ルウィが言った事だが」
「……」
「全部を信じるなよ。ヤツが言ってた事は噂話を自分の都合の良いように解釈しているに過ぎない」
「……」
「ヤツはお前を貶めようとしている。その策略に乗るなよ」
大きく一つため息をつき、アレクセイは頭をガシガシとかき回した。
「わかっているさ。ヤツは最初からおれを目の敵にしている。なぁ、あんた知ってたか?あいつアルラウネに懸想してたんだぜ」
ズボフスキーは指に挟んでいたタバコをポロリと机に落としてしまった。
「な、なにぃ〜」
「モスクワ音楽院に兄貴がいた頃から、どうやら彼女につきまとってらしい。彼女はあの通りの人だからまったく気づいていなかったらしいけれどな。あのユーリィー・プレシコフと結託して兄貴を貶めたんじゃないかって言う同志さえいたよ」
「おい……」
冗談に出来ない。あのルウィの様子ならやりかねない。ズボフスキーは肝を冷やした。
「まぁ、それは根拠のない噂だ。おれも気にしちゃいない。ドイツでは、彼女は兄貴との約束を守ろうとおれを鍛える事に尽力してたからな。ヤツも面白くなかったんだろう」
ズボフスキーはタバコの煙を大きく吐き、灰皿でもみ消した。
「とにかく……、ルウィの手許にあるという連絡文だって、どんな事が書いてあるか分からない。下手に動揺しているとヤツに利を与える事になる。それにやつはまだユリウスがユスーポフ家にいると思っている。あの邸を出てここにいる事を知っているわけじゃない。ヤツが言っている事がすべて真実では無いという事だ」
「ああ、そうだ……な」
力なく答えるアレクセイの様子に、ズボフスキーはそっとため息をついた。
アレクセイがユリウスとの事を自分から話し出す事はこれまでなかった。訊ねてもはぐらかされる事がほとんど。うまく話を誘導していかないといつも一言二言で終わってしまう。それ故にズボフスキーは苦労して、彼女との関係をアレクセイから聞き出してきた。
それなのにルウィとの因縁の経緯からではあったが、ユリウスとの出会いを彼にしては珍しく饒舌に話してくれた。
内心驚き、同時に不安に思った。
ユスーポフ侯爵の愛人……。
平静を装っているが、この一言故に彼の心が波立っているのであろう。
盟友であるがゆえに解るアレクセイの微妙な変化に、ズボフスキーは心を痛めた。
「なぁ……」
アレクセイは顔にかかる髪を両手で後ろになでつけ、ふーっと大きく息を吐いた。
「正直に言うとな……」
天井を見つめたままアレクセイが言葉を繋げる。
「おれも同じように思ったよ」
「……」
「あんな風に侯爵を慕うのを見れば嫌でも想像しちまうってもんだ。縁者でも何でもない異邦人の女を何故家族同然の待遇で7年も。普通に考えれば簡単な事だ。再会した時のあいつの様子を見れば誰だって……」
ドンッ!!
アレクセイが両手の拳でデスクを思い切り叩く音が事務所に響く。
亜麻色の髪が顔にかかり表情を伺う事が出来ないが、握り締められた拳が微かに震えていた。
「アレクセイ……」
「は……笑っちまうよな。全部おれが招いた事なんだぜ。あいつを2度も突き放し、おれのことを忘れろと言った。ロシアに戻る時には、あいつを愛するもう一人の男にあいつを託した事だってある。全部……おれが望んだ事だ」
「……」
「何もかもおれが願った通りになった。おれの存在を忘れ、おれ以外の男があいつを守り……、あいつもその男を頼り、心を寄せ……求めるに任せて身をゆだね……」
「……」
「しかたのない事だとわかっているんだ!だが、改めてあんな風に突きつけられると……さすがにまいるよ。己のばかさ加減が……な」
「アレクセイ……」
「本当の事を言うとな……、あいつはおれ以外の男を決して愛さないと思っていた。そしておれもあいつ以外の女は決して愛さない。いや愛せない。おれたちは互いに求め合っていて互いが唯一無二の相手だと……。どんな状況になろうと、あいつはおれを。おれはあいつを忘れられないと、そんな風に思っていた。……ひどい仕打ちばかりしてきたくせに、勝手だよな」
アレクセイの瞳が遠くを見つめる。その先には彼が愛する娘が優しく笑いかけているのであろう。
実際に彼女を目の前にすると目を背けるくせに、心の奥には彼女だけを大切に住まわせ、いつも笑いかけ、触れようと手を伸ばしているに違いない。
ズボフスキーは一途なその想いを何としても遂げさせてやりたいと身を乗り出した。
「ユリウスは、お前を想っているぞ。おまえと生きていきたいと望んでいるんだぞ!」
「……」
「さっき言ったじゃないか。お前たちは互いが唯一無二の相手。あまりこういう言い方はしたくないが、運命に結びつけられた恋人同士なんじゃないか?過去がなんだ!いくら悔やんでも、過去には戻れないんだぞ。もっと未来に目を向けろ!彼女の心はおまえを求めてる。それともなにか?おまえは彼女の心よりも、処女性にこだわるのか?」
アレクセイがハッと顔を上げズボフスキーを見た。
心優しき髭の盟友は穏やかな顔のまま、まっすぐにアレクセイを見つめている。
「心から愛する女性をまたも手放そうっていうのか?おまえは過去ばかりに目を向け、ちっとも前を向うとしていない。ユリウスの未来を見てやれ!自分の未来に目を向けろ!」
穏やかなズボフスキーには珍しく、熱く強く訴えかけた。
「ズボフスキー」
「おれたちは前へ進んでいかなければならない。過去に捕らわれている時間は無いはずだぞ。アカトゥイに散った同志も、ミハイルも、おまえの兄貴も、お前を縛る権利はない。お前は今を生きているんだ。これからを生きるんだ。かつて彼らがいた事を糧にしろ!おまえはこれから先を進んでいかねばならない者なんだ!彼らがおまえを生かしてくれた意味をはき違えるなよ!」
しばらくの静寂の後、アレクセイがふっと笑った。
「おれとあいつの未来……か」
アレクセイはコートを手に取った。
「わるい、少し出てくる」
それだけを言うと事務所を出て行った。
これからしばらくは、厳しい任務に忙殺される日々が続くであろう。
その前に、アレクセイの気持ちが固まってくれれば、と願わずにはいられない。
残されたズボフスキーはふーっと大きく息を吐き、髭のキューピッドの役割は果たせたろうか?と先程の自分の言葉を反芻してみる。
なかなか良い事を我ながら言ったな、と独り言ちて機嫌を良くした。
「ルウィが思わぬ伏兵だったのか……?いや、あまりに危険すぎるが……」
ルウィの存在は厄介なものであるが、彼が現れた事で2人に良い結果をもたらせれば良いと願わずにはいられなかった。