その先へ・・・5
(6)
陽が落ちた街を足早に進む。
アレクセイの胸には先ほどのズボフスキーとのやり取りが熱く疼いていた。
ユリウスと再会してから、ずっとこだわっていたのは何なのか?
記憶を失ってしまった事か?アレクセイを愛して、追って来た事すら忘れ去ってしまった事か?
彼女の心か?
……躰か?
黒髪の侯爵の堂々とした姿と、彼に優しく微笑みかけるユリウスの姿が浮かんだ。侯爵はユリウスの華奢な躰を抱き寄せ、彼女もゆったりとその広い胸にすべてを預ける。
胸に黒く蟠る思いにアレクセイはギリッとくちびるを噛んだ。
傷つけ、騙し、振り捨てたくせに、何を今更……と自分を叱咤する。
おれのそんな所業の果てに彼女は記憶を失ったのだ。
それなのに。
それなのに、だ!
人生の根幹を失ってしまう不幸に遭ってもなお、真摯な心でおれを見つめ再び愛しはじめてくれている。
そんなあいつを 自分の都合でまた振り捨てようというのか?
アカトゥイで虚しく命を落とした大勢の同志達の事を盾に、自分の都合ばかりをあいつに押しつけて。
しかも今度は自分の都合ばかりでは飽き足らず、女の純潔というもっともらしい理由をワザと付け足して!
自分自身に腹を立て、アレクセイは足音荒く雪道を歩いていた。
もうすぐ春がやって来るというのに、足元にはまだ多くの雪が残っており、油断すると足を取られそうになる。
今年は春が遅いのかもしれない。
そんな風に思いながら、両手をポケットに突っ込み少し足速に歩く。
アレクセイの足は、ヴァシリエフスキー島へと向かって行った。
きっとズボフスキーはユリウスの所へ向かったと思っているのだろうな、と思うと少し申し訳ない気もする。
表通りは通らず、薄暗い路地を縫う様に歩いていく。路上には派手な服で飾り立てた女たちが立ち、通る男たちに秋波を送っていた。
見事捕まえた男にしなだれかかり更なる暗闇に消えていく女。
めぼしをつけた男に執拗に絡む女や、それとは逆に好みじゃない男に絡まれ露骨に嫌な顔をする女。
アレクセイの許にも数人の女たちが群がったが、足を止める事なく女たちを軽くあしらい、大股で歩く彼を追って来ることは無かった。
女たちの罵声を背中で聞きながら、アレクセイの胸に先程のズボフスキーのまっすぐな言葉が胸に刺さってくる。
「処女性にこだわっているのか?」
彼がどんな気持ちであの言葉を言ったのかと思うと胸が痛んだ。
アレクセイはふうっと大きく息を吐いた。
女にばかり純潔を求めるのは、男のエゴだ。
自分を見てみろ!
あいつを気が狂った様に求め、荒れ狂う熱を鎮めようと近寄ってくる女たちと関係を持ったくせに。
おれを忘れ、他の男の心配をし、その名を必死に呼ぶ事に耐えられず、他の女を抱いたくせに。
おれは……あきれたろくでなしだ!
自分ばかりを正当化し、あいつを避け続け‥‥手放すの‥‥か?
また同じことを繰り返そうというのか?
あの時と同じ様に。
アレクセイの胸に、イザークの顔が蘇った。
出会った時は線の細い少年だった。
別れる頃には背も伸び、幾分体つきも男らしくなり、顔つきも変わっていた。
アカトゥイから脱獄し、偶然耳にしたラジオ放送から流れてきたベートーベンの『皇帝』。
どうしてもそれが耳から離れず、体力が回復してからすぐ新聞を片っ端から探しイザークの記事と写真を探し出した。
若手のベートーベン弾きとして華々しく活躍している記事は、かつての相棒として誇らしかった。
今やすっかり大人の男となったかつての〈苦学生〉。
ユリウスを失った事を もがきながらも昇華し、男として、ピアニストとして地位も名誉も得て自信にあふれた笑みだった。
彼は自分やユリウスの事をどんな風に思っているだろうか?
「なにを恐れているんですか?」
ユリウスをあからさまに無視し、傷付け泣かせ続けた事を堂々と咎められた。
何故受け止めてやらないんだ、と普段はおとなしい瞳に怒りの炎を潜ませ迫って。
恐らく自分がいなくなった後、彼女を受けとめ守ってやろうと必死になったに違いない。
金色の髪のエウリディケを愛する、もう一人のオルフェウス……。
なぁ、イザーク。
アレクセイは心の中で語り掛けた。
おまえはどんな気持ちでユリウスがいなくなった日々を過ごしていたんだ?
同じ伝説であいつに運命づけられたおれは、あいつを想わない日は無かった。
忘れよう、忘れねばともがき苦しみ、おまえが知ったら軽蔑されそうな事をしてきたよ。
は……、それでもあいつを忘れられなかった。
命がけでおれを追って来たあいつを、突き放し、記憶まで失わせ……それでもまだあの頃と同じような事をしている。
あの時おまえに、なにを恐れているのか?……と問われたな。
おれは……。
アレクセイの足が止まった。
マダム・コルフの店。
今は明かりも消え、人の気配はない。あの時、ここに集って合流する筈だった同志達が急襲され、捕らわれてしまった所。
多くの同志がここを隠れ家にしていた為、何回か打ち合わせに寄った事はあるが、あまり雰囲気の良い店では無かった。
確かミハイルもここを使っていた筈だ。
アレクセイは再び足を進めた。まだ憲兵の目が光っているかもしれない。不自然にならない様に足を早め前を通り過ぎた。
少し歩いた末にアレクセイが行き着いたのは、先ほどとは違い活気溢れる店の前だった。
派手な灯がこうこうと道と建物を照らし、店の中には次々と男たちが吸い込まれていく。
身なりの良い紳士から労働者、若者も老人もいる。淫猥な笑みを浮かべ中をうかがっている男や、今に疲れ一時の夢や快楽を貪り来た男など様々だった。
店の中から派手な音楽や女の嬌声、男たちの声などが聞こえてきている。
おそらくマダム・コルフの店が廃業になってしまった為にお客が流れてきて大忙しなのだろう。
あまり長居はしたくない場所ではあったのだが、今は仕方がない。道路を挟み店の入り口が見える建物の影に入り、前を通り過ぎる男たちの視線に入らない様に立ち、タバコを口にくわえ火をつけた。