その先へ・・・5
ズボフスキーが出かけた後、アレクセイはほぅと小さくため息をつき、タバコに火をつけた。
最近時間が出来ると、ミハイルの遺した書類に目を通すようにしていた。
そこにアカトゥイ監獄の記述がある。
読んでいるとそんな日々を耐えられたのは、共に地獄を生きた同志達の存在だと改めて思い知らされる。生きる力をくれたのも、希望を持たせてくれたのも彼らだった。
しかし……希望の大地を目の前にしながら、彼らは皆無念にも炎に飲まれてしまった。最後の力を振り絞って自分を送り出してくれた同志達。
彼らの事を思うと、個人の感情を優先しようなどと思えなくなってしまう。彼らが渇望し、成し遂げられなかった無念を自分の力に変え、精一杯祖国の革命の為に精進しなければ……と。
しかしこうして休む間もなく働き任務に没頭すればするだけ、ユリウスとの距離は離れていく。
ユリウスと最後に会ってから、もうだいぶ日にちが経っている。心配はしているだろうとは思っていた。
ズボフスキーが帰る度、逐一ユリウスの様子を報告するのを 内心楽しみにしていた。本当は彼が言う通り顔を見せ、安心させてやった方がいいのだろうと思っていたのだが……思い切りがつかなかった。
ズボフスキーから彼女の様子を聞き、いつも思い出すのはミュンヘンでの別れの時のユリウスだった。
クスリで眠る彼女を抱き上げた時、その身の驚くほどの軽さに驚き、ほとばしる愛おしさに抗う事が出来ず思わずその身をきつく抱きしめた。あの頃もほっそりとしていたが、思春期の少女特有の少しふっくらとした所も感じられた。
しかしズボフスキーの部屋の玄関先で、脱いだコートで彼女を包んだ時、あまりにも線が細い事に驚いた。
肩も腕も腰も……彼女をカタチづくるすべてが痛々しいほどに華奢だ。
それでも、思わず指で触れてしまった頬やくちびるはふんわりと柔らかく、しっとりと弾力があって15歳の彼女とは明らかに違っていた。
あの頃よりも豊かに流れる金色の髪も、白い首筋から立ち上る甘い香りも、たっぷりとしたブラウスの上からでもわかる胸もとの存在も、かつての彼女には無いものだった。
女盛りってやつか……。
再びほうっ……と大きく息を吐く。
彼女をさけ続け、どうやって記憶を取り戻させるか。どうやってドイツへ連れ帰るか、と考えていた筈だったのに、今アレクセイの心にはその思いは無い。
出会った頃から変わらぬ碧い瞳。まっすぐに自分だけを見つめるあの瞳に捕らえられ、もう逃れられないと観念すると、それまでの決意が揺らいでしまった。その結果……ユリウスの部屋で彼女の柔らかでしなやかなからだを引き寄せ、まろやかな頬を包み、魅惑のくちびるをあとわずかで再び我がものにしようとした。
あの時の彼女の熱さ、感触、甘い香り……
アレクセイは頭をガシガシとかき回した。
まるで10代のウブな子供の様に一人赤面する。
ユリウスと初めてくちづけを交わすわけでも無いのに、なぜこんなにも狼狽えてしまうのだろうか……と。
自分の相反する思いに、自分でも説明がつかなくなっていた。
「アレクセイ、大丈夫か?」
アレクセイの様子を不思議に思った同志が声をかけてきた。
「あ、ああ……大丈夫だ」
再びタバコに火をつけ、深く吸い込むと自分を落ち着かせるようにゆっくりと煙を吐き出した。
不意にユリウスの泣き顔を思い出す。
泣いていたぞと聞かされ、彼女をまた泣かせてしまっている事に胸が痛んだ。
「何か悩み事か?聞いてやるぞ」
「……なぁ、女が泣いていたら、あんただったらどうする?」
少し気を緩めていたためか、普段だったら決して口にしないような事を思わず口走ってしまった。
思いがけない事を聞かれた同志は、度肝を抜かれたような顔つきでアレクセイを見つめた。アレクセイの口から女の話が出るなんて初めてだったからだ。
「ど、どうするって……そりゃ慰めるさ」
「……そうか」
「惚れた女だったら、何も言わずに押し倒すな。オレなら」
「……そうか……」
滅多に、いや初めて聞くアレクセイからの女の話に、同志は食いついた。
「よぉよぉ、聞き捨てならないなぁ。おまえ押し倒したい女がいるのか?どこのどんな女だ?商売女か?それとも昔の女たちの中の誰かか?おっ!もしかしてあれか!森で会った男装の美女!そうだろう?」
ニヤニヤと面白そうに笑う同志に、こいつに聞いたのが間違ってたと後悔した。昔の荒れた時期を知る、数少ない同志の一人だった。
んなもんいるわけないだろう、ここにこんな風に缶詰になってりゃ。とうそぶいて同志の追及をかわした。
「なんだ、つまらねぇ。だがよ、いつでも相談にのるぜ!ヒゲのオヤジに聞けない事もあるだろう」
意味ありげに片目をつむって合図を送り、手のひらをヒラヒラさせて離れていった同志の背中を見送り、アレクセイはうん、と大きく伸びをした。
「押し倒せたらいいんだがな……」
押し倒したら最後、もうユリウスを手放せない。いや……もうすでにユリウスを手放す事など出来ないのだが。
心の底では、そうすることを欲している。そしてそれは多分、ユリウスも同じだろう。
そうとはわかっている。わかってはいるんだが、それでも……
くわえていたタバコを灰皿に押しつけ、椅子に座り直した時、ドアが開きイワンが現れた。
「遅くなりました!」
「おお!イワン!で、使者殿は?」
「はい、いらっしゃいます」
イワンの後ろから現れたのは、苦虫を噛み潰した様な顔をしたズボフスキーと、目深にハンチング帽をかぶった小男だった。
「あんた……」
アレクセイはどこかで見知ったその顔を凝視する。
「ふん、相変わらずあまちゃんだな。アレクセイ・ミハイロフ」
「……ルウィ。おまえ……」