その先へ・・・5
秋が訪れて少しひんやりとする夜の街を寄宿舎へ向かってゆっくりと歩いていった。
……遙かなる祖国。
ロシアの地鳴りの様な呻き声はここまで届く筈もない。
ヨーロッパ中の国に散らばり、亡命生活を余儀なくされている同志達と密接に連絡を取り合う事で伝わってくる祖国の胎動に一喜一憂するそんな日々が、もう三年も続いていた。
三年前‥‥
突然の兄の逮捕から始まった日々。
『逃げるのよ!早く!!』
アルラウネになかば強引に引き立てられ、隠れたり変装したりしながらの祖国からの逃亡に戸惑ってばかりだった。
逃亡中に執行された兄の処刑当日の朝、昇る朝日を見ながらアルラウネと二人、声を殺して泣いのは昨日の事のようで未だに心に鋭く突き刺さっている。
あんなに泣いたのはあの時が最初で最後だった。
国境を越え、ドイツに入ったところで急にに自分達がどこへ向かっているのか知りたくなり尋ねた。
寂しげに笑ったアルラウネは、車窓の外の流れる景色を見ながら言った。
「とりあえずはミュンヘン。ドミィートリィから頼まれて、父が極秘に買い取った屋敷へ」
「ミュンヘン……」
「ええ。そこは訳ありの物件でね、気味悪がって誰も近寄らないいわくつきの屋敷らしいわ。フフフ……私達が隠れ住むにはもってこいね。そこであなたが通う事になる学校を探します」
「学校?ぼくは学校に行くのか?」
「ええ。おそらく寄宿舎に入る事になると思うわ」
「なんでだ?」
「奴らはきっとあなたを探し出そうとする。同じ年頃の子供たちと一緒にいた方が目立たないわ。だからまずはドイツ語を完璧にマスターする事を優先させます。クラウス・フリードリヒ・ゾンマーシュミット。ドイツでのあなたの名前よ」
「クラウス……」
「そうよ。……ドミィートリィがつけてくれた名よ」
「兄貴が?!」
「ええ」
アルラウネは涙を堪えるように窓の外に視線を移した。
「誇りをお持ちなさい、アレクセイ。あなたはドミィートリィ・ミハイロフの弟。それを決して忘れてはならないわ。いずれロシアに戻る日の為に」
「ロシアに戻る日の為に……」
静かにアルラウネはうなずいた。彼女はもう泣いていなかった。背筋を伸ばし凛としたいつもの彼女に戻っていのが鮮明に心に残っている。
夜更けに寄宿舎に着き、舎監から小言を言われないようベランダをよじ登り、音を立てずに外から窓をあけ部屋へと滑り込んだ。
明かりをつけず、ネクタイだけ緩めそのままベッドへと倒れこんだ。
明日から新学期が始まる。
これからの新しい一年に思いを馳せ、心躍る夜の筈だ。
どんなヤツが新しく入ってくるのか。
どうせお気楽な貴族や資産家のぼんぼんだから、また盛大にいじってやろう。
自分の気持ちを変えようとあれこれ考えてみるのだが、いっこう気持ちは高揚しない。
アレクセイは、ベッドの上で横になったまま暗い天上を見つめた。
『貴族のおぼっちゃんの遊び感覚でやられたら困るんだよ!』
『学生は学生らしく、点数稼ぎに精を出していれば良いものを。おれたちは命を懸けてるんでね!邪魔するな!』
ルウィが吐いた言葉がぐるぐると頭の中を巡る。それは耳鳴りの様にがんがんと脳髄を打ち始め、吐き気をもよおしそうになる。
所詮そんな風にしか見られていないのか?
汚名を着てもなおかつ祖国の礎たらんとしているのに、貴族の道楽の一つの様にしか見られない事が腹立たしかった。
感謝してもらいたい訳ではない。
共に崇高な理想のもとに命を賭して働いているというのに、貴族だとか、市民だとかという言葉で差別されるのが許せなかった。
兄はなんの為にその命を捧げたのか?
市民が言うのと同じように、『貴族だって誇り高い矜持を持った同じ人間だ』と叫びたかった。
やりきれない怒りがアレクセイの全身を支配していた。
「くそったれ!!」
勢いつけてベッドから起きあがり、机の一番下の引出を引っ張り出した。
無造作に立てかけられた楽譜の奥からしわくちゃの茶色い包みを取りだす。瓶の半分ほど入ったウォッカを取り出し、そのまま一気に呷った。
液体は喉もとを焼いて腹の中へと納まる。体の奥底からじんわりと熱がわき上がってくると、それはすぐに全身に広がり彼の思考や体の自由を奪い始めた。
ぼおぅっとなった意識の奥底では、まだ先程の言葉にこだわっている自分がいる。ベッドに座り幾度も酒を呷っているうちに瓶は空になった。と同時に、アレクセイもそのままベッドの上へと倒れ込み、深い眠りの底へと落ちていってしまった。