彼方から 第三部 第八話 & 余談 第五話
眼前に立つ、見目麗しい円舞服を身に着けたエイジュの背を見やり、クレアジータは自嘲の笑みを零す。
障壁越しに聞こえて来るのは、エイジュに向けて放たれた、襲撃者の怒号や罵倒……それに嘲笑。
――あの時と、同じ……
今でも鮮明に、脳裏に浮かんでくる。
村からの帰路の途中。
護衛の任に就いてくれた数人の警備兵と共に、野営をした森の中。
盗賊に襲われ……一人、取り残された、あの夜のことを……
***
――死にたくないっ!
――まだ、やりたいことが……
――やらなくてはならないことが、まだ、たくさんあると言うのにっ!!
逃げ場を失った。
散々追い掛け回され、森の中を只管、走り続けた……
その結果――
行き着いた場所は、隠れるところなどまるでない――とても、登れそうもない、切り立った崖が聳えるだけの、場所だった。
「……ああ――」
崖に縋り付くように両手を当てる。
見上げた先に映る、険しい崖面に、絶望が襲ってくる。
肺が苦しくなるほど無我夢中で走り続け、行き着いた先がこのような場所とは……
自分を逃がす為、身を挺してくれた警備兵たち――
恐らく殺されてしまったであろう、彼らのことを想うと……胸が詰まる。
まだ、『臣官』として、何も成し得てもいない、こんな未熟な自分の為に……
――私は……
――ここで果ててしまうのか……?
崖面に手を付けたまま、膝から崩れ落ちてゆく。
唇を噛み締め、爪が食い込むほど……拳を握り締める。
項垂れ、瞼をきつく閉じたその時、枝葉を掻き分ける無数の音が、耳朶を掴んだ。
「――ッ!!」
ハッとして振り返り、身構え、思わず腰の剣に手をやる。
震える手で、剣の柄を握る。
「――おい、居たぞ!」
「やっとか、手間を掛けさせやがって……」
複数の、耳障りな男の声と共に、擦れ合う木々の枝の音が近付いてくる。
クレアジータは碌に扱えもしない剣を、震えながら引き抜き、崖を背に、構えていた。
「――なんだ? こいつ……」
盗賊が、木々の合間から姿を現す。
「剣なんか構えやがって、おれ達と殺り合おうってのか?」
一人、また一人と、剣身で松明の明かりを弾きながら出て来ては、クレアジータを取り囲んでゆく。
その様を見やりながらも、疲れからか逃げることすら出来ず、ただ、剣を構え、クレアジータは成す術も無く立ち尽くすだけだ。
体の震えが止まらない。
まるで、際限などないかのように、増えてゆく盗賊たち……
何処を――誰を見据えれば良いのか分からず、クレアジータの視線が彷徨う。
「見つけたか? 野郎ども」
一際野太い声が、盗賊たちの後方から聴こえ、クレアジータはゆっくりと、そちらへ眼を向けた。
生木の折れる音が近づいてくる。
邪魔な枝を掻い潜るようにして姿を現した男は、他の盗賊たちよりも背は頭一つ分抜きん出ており、体格も一回りは大きい……
見上げるような大男に、クレアジータは思わず息を呑んでいた。
「頭っ! こいつ、おれ達と一戦交えようって気ですぜ?」
手下の一人がそう言って、嘲りながら彼に剣先を向ける。
「くだらねぇ……いいからさっさと殺せ、殺したら、身包み剥ぐのを忘れるなよ? こいつを警備していた奴らからもまだ、剥ぎ終わってねぇんだ――ったく、手間取らせやがって……」
見下し、そして見据え――頭と呼ばれた男は唾を吐き、舌打ちをする。
クレアジータの脳裏に、自分を庇いながら、眼の前に居る盗賊たちに立ち向かってくれた警備の者たちの顔が、浮かんでくる。
――彼らは……
――彼らは私の為に……!
きっと皆――家族が居たはずだ。
愛する者が、居たはずだ。
確かに仕事の為にあの村を訪れたが、気構えが甘かった……
半分は自身の好奇心を満たす為に、訪れたようなものなのだ……
――もっと早く、あの村を出立していれば
――陽が暮れる前に、隣の町に着いていた……
――いや、遅くなるのが分かっていたならば、もう一泊すれば、こんな事には……!
悔やんでも悔やみきれない。
皆、自身の『我儘』が蒔いた種なのだ。
だが、どれだけ悔やんだところで、過ぎてしまった時を戻すことは出来ない……
ならば、彼らの『死』に報いる為にも、せめて自分だけは――何とか生き延びねば……!
クレアジータは、歯を食い縛ると剣の柄を握り直し、下卑た笑いを張り付かせた盗賊たちを睨みつけた。
「殺れ」
感情の欠片もない声音で、盗賊の頭がそう、命令する。
手下たちは、歓喜の雄叫びを上げると、剣を振り上げ、一斉に襲い掛かって来た。
――ッ!!!
思わず、瞼をきつく、瞑っていた。
次の瞬間には、剣が自身の体に振り下ろされるであろうことが分かっているのに、それを防ぐ手立てを失うと分かっているのに……怖さから、思わず眼を瞑っていた。
「ぐあぁあぁぁっ!!」
男の苦し気な叫び声にハッとして、瞼を開く。
生き延びねば……そう思い、剣を構えたにも拘らず、恐れから眼を閉じてしまっていたことに気付き、クレアジータは慌てて、辺りの様子を確かめる為に、顔を上げた。
吹く風に流れる、漆黒の長い髪が瞳に映る。
緩やかに波打つ黒髪は頭頂部で束ねられ、その毛先は腰の辺りにまで届いている。
左手に、通常のものよりも細身の剣を握り、盗賊たちに向かって斜に構えている剣士……
なめらかな曲線を描いている細身の体躯に、眼が奪われる。
それはどう見ても、『女性』のもの――
だが、着用している上着は男物の、濃紺の上着……
「……あ、あなた――は?」
まだ、恐怖に震える唇……
クレアジータは何度も口を開き直しながら漸く一言、そう訊ねていた。
「ただの渡り戦士よ……」
彼女は端的にそう返すと、右手に剣を持ち直し、左の手の平をクレアジータへと向けた。
「そこから動いては駄目よ」
「え?」
その言葉の意味を訊き返そうとして、足下に伝わる冷えた空気に気付く。
「な……冷たい――?」
ゆっくりと、這い上がってくるかのような冷たさに、クレアジータは思わず身を竦め、自身の足下を見回していた。
キィン……と、耳に響く甲高い音と共に、地面から薄い氷が、幕が上がるように張り出してくるのが分かる。
瞬く間に、頭上まで覆ってしまった氷の障壁を見上げ、クレアジータは無意識に、その指を伸ばそうとしていた。
「触らないことを、お勧めするわ……」
「え? あ、はいっ」
まるで、その気配を察知したかのように、背中越しに向けられた言葉。
クレアジータはいたずらを見つけられた子供のように、氷の障壁に伸ばそうとしていた指を引っ込め、姿勢を正すと素直に返事を返していた。
障壁越しに、彼女に向けられた盗賊たちの怒号や罵声が聞こえて来る。
だが、当の本人は意に介していないようだ。
背中から漂う雰囲気に、怯えや恐怖など、微塵も感じられない。
左手に持ち直した剣の先を、盗賊の頭へと向ける女の渡り戦士。
刹那――
剣を振り上げ、襲い来る盗賊たちに向かってゆく彼女の背を、クレアジータは煌めく氷の障壁越しに見詰めていた。
作品名:彼方から 第三部 第八話 & 余談 第五話 作家名:自分らしく