サヨナラのウラガワ 2
今のところ、その感情は私にはない。衛宮士郎を好きか嫌いか……、そんな言葉で片付けられる対象ではないのだ。
ならば、全くなんの感情すら向けていないかといえば、そうでもない。
未熟者が正しいレールに乗れればいいと、先達としては心配している。私と同じ轍を踏むなよ、とは、いつも思っていることだ。
ではそれが、恋人でいたいと思う感情かといえば違うだろう。だが、タダで魔力をもらうということに気が咎めたのは確かだ。恋人だというお膳立てがあれば、経口摂取も直接供給もやりやすいと思った。
それだけだったのだろうか?
衛宮士郎とともに過ごすことになんら理由がなく、意味もなく現界していることが心許なくて、理由が欲しかった、と?
いや、違う。私はそんな逃げ道を作ったつもりはなかった。
では、恋人であることに、私は存外その気であったのだろうか。だとしたら、手痛い結果だな……。
結局、士郎にとって私と恋人だという関係は、ただの気の迷いだった。もう私に向けられる想いはなくなっている。だから、衛宮邸を追い出され、このマンションに押し込められたのだ。
確かに、別れた恋人と一つ屋根の下というのはやりにくいだろう。
私はもう不要のものだ。
だが、処分に困って、こんなところに押し込めた。
しようがない。
サーヴァントを粗大ゴミのように引き取ってくれるところはないからな……。
Back Side 5
「衛宮士郎……」
呟く声の、なんと弱々しいことか。
アーチャーは日がな一日、ダイニングの窓辺に座って過ごしている。洋間のベッドで睡眠を取り、魔力の温存に努めていたのは少しの間だけだった。昼も夜もなく眠気などささない身体は、次第に重く感じられ、存在が徐々に希薄になっている気がする。
士郎との契約は、その魔力の受け渡しとはうらはらに確たるものであって、早々に壊れてしまうようには思えない。が、万が一ということもある。
このまま座に還ることになるかもしれないと、魔力が少なくなってきたアーチャーは、ぼんやり覚悟を決める。
夜が明けるとともに空は白んで、輝いていた月がすでに白くぼやけていることに気づく。
やがて朝になり、カタンという音とともに、紙袋が郵便受けに入った。
のそり、と立ち上がり、玄関へ向かう。
紙袋の中身は食品ラップで包まれた薄紅色の立方体。包んであるラップを剥がすごとに、芳しい香りを嗅いだときのような高揚感に満たされていく。
「はぁ……」
熱いため息がこぼれる。
紙袋もラップも取り落とし、手のひらに乗せた二センチ角ほどの立方体を、両手で囲いながら鼻先を近づける。
掌の中の魔力を逃さないように深く息を吸い込めば、背筋を震えが駆け上る。アブナイ薬でも摂取したようにクラクラしながら補給剤を口に含み、舌の上でしばらくその魔力を味わった。
一息に飲み込んでしまいたいが、三日に一度の補給剤だ。もう少し味わいたいと思うのは人であった名残なのか。
女々しいことを考えている、と自嘲するアーチャーは、士郎の魔力に対して抗い難い欲求が芽生えていることをひしひしと感じる。
――――まずいかもしれない。
何に対してそう思うのか。己か、士郎か。それとも自身の存在意義を繋ぎ止める、守護者という役割か。
――――どうでもいい。
アーチャーは考えることが面倒になってきた。
今はただ、この魔力を味わいたい。
少し舌で上顎に押し付ければ、ほろりと崩れていく補給剤は、おそらく緩めの寒天で成型したのだろう、などと、どうでもいいことを思いながら飲み込む。
「は…………」
至福の時間は短い。あっという間に終わってしまう。
また三日後だ。待ち遠しさで胸が焦げ付く。
だが、今はまだ満たされた胸の内が甘やかな熱を持っている。
衛宮士郎の味がした、とは少々猟奇的じみているが、アーチャーにとってその魔力は士郎そのものであり、他の何にも代えがたい。
少し魔力が補填され、遠ざかっていく気配を追うことができる。
今にも切れそうな糸のように、か細い繋がりが離れていってしまうことに、ただただ追いたい衝動に駆られる。毎度、自身を強く戒めて事なきを得ているが、いつか扉を開けて、士郎を捕らえたい欲求に支配されてしまうかもしれない。
それほどにアーチャーは餓えている。魔力の少なさは、その存在を求める、という即物的な欲求に繋がる。
「士郎……」
目の前にいるときは、こんな呼び方はできない。怪訝な顔をされるのは火を見るよりも明らかで、不思議そうな顔をされるのは癪に障る。
だから、いつも“おい”だの、“貴様”だの、“衛宮士郎”だの、親しさなど感じられない呼び方を選んで使っていた。
ごん、と鈍い音を立てて額を玄関扉に預け、もう定かではない気配の名残を惜しんでいる。
「我ながら、女々しいな……」
自嘲しかできなかった。
アーチャーにはもう、この現状を受け入れることしか、なす術がない。
――――どうすることもできない……。
衛宮邸で過ごした時間にも、その場所にも、戻ることができないことを、痛いほどアーチャーは理解していた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
魔力が足りない。
ならば、どうにかして現界に足る魔力を補わなければならない。
そういう結論に、私は至った。
三日ごとに支給される魔力の煮凝りのようなものは、ほんの数時間分しかないのだ。
「これでは、現界など、いつできなくなってもおかしくはない」
はた、と気づく。
私は、何を呆けたことを……?
現界できなくなれば座に還るだけだ。それを、どうして回避しようとしているのか……。
「…………」
だが、私はまだ……。
まだ、ここで……。
望まれたのだ、引き留められたのだ、衛宮士郎に。
だから……。
いや、もう望まれてはいない。不要のものだと思われている。
であれば、私は座に還るべきではないのか?
それが、当然の流れだろう?
無理に契約など続ける意味などないし、凛とセイバーがいるのならば、衛宮士郎も大丈夫だ。私と同じ轍は踏むまい。
「だから、もう……」
ヨロヨロと立ち上がる。
「座に還るのならば、一目……、いや、一言くらい、声をかけてからではないと……」
できることなら、凛にもう一度、アレのことを頼んでおきたい。頼りない奴だが、支えてやってほしいと、もう一度……。
ここに連れてこられた日以来、初めて玄関を出た。夏の盛りの夜は熱気で埋め尽くされていて、魔力不足の身体には正直堪える。この熱気の中を深山町まで行く自信がなくなってきてしまう。
徒歩で衛宮邸まで行くのは無理だと判断し、バスに乗ることにした。生活費として渡された金に手を付けるのは気が引けたが、無賃乗車などできない。
フラつく足で新都の駅前に辿り着き、バス停まであと少しだが、足元がおぼつかない。気は逸るが、近くのベンチでひと休みすることにした。
魔力さえあれば一足飛びで目的地だというのに、重い身体が恨めしい。
「は……」
夜だというのに熱気の冷めない、もったりとした空気、雑踏の騒々しさ。平日の夜だが、案外、人が多いことに嫌でも気づく。
作品名:サヨナラのウラガワ 2 作家名:さやけ