サヨナラのウラガワ 2
壁にもたれ、ぼんやりしながら明るくなった空を窓辺で見上げていると、慌てた様子の女性が洋間から出てきて謝罪を残し、そそくさと去っていくのが常になっている。
――――べつに、謝ることなどない。
そう思いながら再び窓の外へ目を向けたとき、ふと、気配に気づいた。いや、魔力の誘引とでもいえばいいのだろうか、飢えが酷くて頭が回らない。立ち上がりながら駆け出したアーチャーは、思った以上の勢いで玄関戸に縋り付き、そのまま思い切り扉を開ける。
「え……」
「…………」
紙袋を手にした士郎が目の前にいる。
餌を前にした犬のように生唾が口内であふれる。
ごくり、と飲み込んだ音を聞かれてはいないか、その身体に伸ばしそうな手を、ドアノブとドア枠を握りしめることで抑え込んでいることに気づかれてはいないか、仮初の心臓が囃し立てるように胸を打っていることを、目を瞠ったままの士郎に勘付かれてはいないか……。
――――ああ……。
琥珀色の瞳が己を映している。そんなことに、馬鹿みたいに感動していた。
アーチャーが引き寄せるために伸ばした手に気づき、士郎はようやく動きを見せる。
「え、っと?」
少しだけ首を傾げた士郎が戸惑っていることに、アーチャーはハッとして、
「寄越せ」
咄嗟に紙袋を指さした。
誤魔化せたかどうかはわからない。だが、士郎は何も言わず、紙袋を手渡してきた。指の先すら触れることなく扉を閉める。
少しでもいいからその体温を感じたかったが、触れなくてよかった、と扉に背を預けてため息をついた。
士郎に触れてしまえば、おそらく自分自身を止められない。魔力不足もあるが、何よりアーチャーは糧の塊である士郎を求めている。己が士郎に何をするか想像もつかないため、やはり、触れなくてよかったと、アーチャーは胸を撫で下ろした。
補給剤を口に含み、遠くなっていく士郎の気配を追う。少しだけ戻る魔力に身体が熱くなる。
不特定多数の生命力の欠片をいただいたところで、こんなに身体が満たされることはない。
「士郎……」
扉に消えた琥珀色の瞳。その腕を掴み、少し前まで女性が寝ていたベッドに引き倒し、貪り尽くしてしまいたい。
「まずいな……」
わかりきったことを呟いた。
それでもアーチャーは、士郎に与えられたこのマンションから衛宮邸へ戻る気にはならず、現界をやめる気にもならなかった。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
「士郎、お前と……」
顔を合わせたあの日から、行きずりの相手から魔力を奪うことが、以前よりもさらに心苦しい。
なぜだろうか……?
今さら士郎に何を取り繕おうというのか。
欠片と云えど、散々他人の生命力を貪ってまで、この世界にしつこく居座ろうとしていることは、百も承知のことだった。生命力をいただく代わりにこの身を供与しているのだから、ギブアンドテイクなのだ。
だが、それを私は胸を張って士郎に言えるのか?
お前がこうさせたのだと、ふんぞり返ることができるのか?
魔力が足りないからもらっていました、などと軽々しく言うことでもないし、やってはいけないことだ。
きっと士郎は憤慨するだろう。何をしているのだと糾弾するかもしれない。
だが、お前は“自由に”と言った。だから、私は……。
いや、言い訳がましい。士郎とて、こんなことを私がしでかすなど、望んでも、予想してもいないはずだ。
では、自由とは?
どうすれば、何をすれば、自由だというのか?
私にはついぞ許されないことだと知っている。私にそんなものは必要ない。私は命ぜられるまま、人のために人を殺し、正義のために人を殺し、世界のために人を……。
「っ…………」
なぜだ。
士郎は、なぜ、私をここに押し込めたのだ。
ここに居ろ、と手を差し伸べて、私を引き留めておきながら、なぜ、お前の傍ではなく、こんなところに……?
傍にいてほしくなかったのか?
もう疎ましくなったのか?
だが……。
「引き留めたのは……お前じゃないか…………」
恨み言をこぼしたところで、士郎に届くはずもない。
私は、なぜ、士郎の手を取ったのだろう?
答えは得たのだ。
これからも守護者として、まだまだ頑張っていけると凛に告げた。たとえ強がりだったとしても、私はこの先も己の選んだ道を、士郎が間違いではないと言った道を、歩み続けるつもりだった。
だというのに……。
なぜ、士郎の手を取ったのか?
「行くなと、言われた気がしたのだ……」
士郎はそんなことは言わなかったと思う。ここに居ろと言っていたが、それは、行くな、というのとは違う。私の勝手な思い込みだろう。
「だが……」
あの瞳は、私の手を強く握った傷だらけの手は、確かに私を思いとどまらせ、士郎との契約に踏み切らせた。
「だから、ここにいる……」
なのに士郎、お前はもう要らないと、そう言うのだな……。
かたん、と静かな音とともに、郵便受けに紙袋が入った音がする。立ち上がるのもやっとだが、玄関まで壁に手をつきながら、どうにか辿り着いた。
いつもと同じ紙袋に入った補給剤を、動きにくい指で取り出す。口にすれば、すべての渇きが解消される。
だが、その効果は、数時間後には消えてなくなるのだ。
「動けるうちに、シーツを……」
ベッドのある洋間の清掃をしておかなければならない。
今、洋間には、女性を連れ込んだときにしか入らず、私は常にダイニングで過ごしている。最初の数日はベッドで睡眠を取っていた。魔力も温存しなければならなかったので、一日の大半をベッドの上で過ごしていた。
だが、女性を連れ込みはじめて、ベッドは“そういう場所”になった。
そこで眠る気にはなれない。したがって、今はダイニングにずっといる。
1DKのうちの、ここはダイニングにあたるのだが、テーブルも椅子もなく、食事をとれるような場所ではないし、台所という方が正しいのかもしれない。その台所も、空っぽの冷蔵庫があるだけで、調理台には調理器具や調味料がいくつか置いてあるだけだ。
その調理器具と調味料は新品で開封もしていない。私が使うだろうと士郎が買い揃えたようだが、使う気力すらない。確かに食事で魔力を補えるとはいうものの、本当に微々たるものだ。自炊しているうちに、動けるだけの魔力が減ってしまう。
セイバーは、よくこんな状態で聖杯戦争を戦えたものだと感心する。元々の魔力量の違いがあるというが、これでは治癒も何もできない。
そんな状態で、厳しい戦いを潜り抜けたセイバーと士郎の絆は、契約のない今でも続いている。セイバーは今も士郎に心を砕き、士郎もセイバーには全幅の信頼を置いている。
「…………」
いや、羨ましいというわけではない。そういう関係になるのは、当たり前のことだ。
「今さら、そんなことを、私は……」
気にしていない、と言えば嘘になる。
「は……、焼きが回ったな、私も……」
自分自身に呆れてしまう。
私はいったい、士郎に何を望んでいるのか。
私に何かを望む権利など、ありはしないというのに……。
私は士郎の望むことに応えるだけだ。それ以外に、私が現界する意味などない。
「そうだ、私には……」
作品名:サヨナラのウラガワ 2 作家名:さやけ