彼方から 第三部 第九話 改め 最終話
イザークはノリコの反応を怪訝に思いながら、彼女のいる方へ、気配のする方へと、足を進めた。
ノリコがいた。
タザシーナたちが飛び去った場所から、ほんの少し、離れたところに……
危ないところだった。
もう少し、来るのが遅れていたら――
彼女の無事な姿に、イザークは安堵の息を吐く。
だが……
その大きな瞳に、涙が溜まっている。
頬を伝い、流れ落ちている。
コナの木に身を寄せ、体を小刻みに震わせ、眉を寄せて……
じっと、見詰めてくる――――何も、言わずに…………
それほどに、怖い思いをさせてしまったのだろうか……
いや、当然だ。
つい先刻まで、生贄として殺されるかもしれないところだったのだ。
助かったと思ったのも束の間、『飛び業』で、無理に連れて行かれそうになって、怖くなかったわけがない。
イザークは、不甲斐なく黙面に捕らえられてしまった己に、責を感じていた。
「すまん……」
謝りの言葉を口にしながら、ノリコへと歩み寄る。
「……来るのが遅くなった」
涙の絶えない大きな瞳で見上げてくる、彼女の髪に優しく手を添えながら、イザークは真摯に詫びていた。
「泣くな」
けれども、ノリコの瞳から涙は消えない。
その顔に、笑顔が戻らない。
「もう、大丈夫だから……」
優しく声を掛けるほどに、ノリコの表情が涙で歪んでゆく。
一人……頼る者も無く逃げ回らなければならなかったその恐怖が、まだ、消えないのだろうか……
そう思うと辛くなってくる。
彼女にこんな思いなど、させたくはないのに……
イザークはその指でそっと、ノリコの涙を拭おうとした。
だが…………
ノリコはイザークの優しいその手を、『無理に』拒むかのように……離れていた――――
「ごめんなさい…………」
消え入るような――小さな声……
コナの木を背に立つノリコの瞳から、大粒の涙が幾つも……幾つも頬を伝い零れ落ちてゆく。
「ごめんなさい――ごめんなさい……」
何度も、何度も繰り返し謝ってくる彼女を、イザークはわけも分からず、ただ、見詰めるしかなかった。
「あたし、知らなかったの……自分が【目覚め】だってこと」
ノリコの言葉に、心臓が大きく、脈を打つ。
「イザークが、【天上鬼】だってこと」
耳朶を打つ言葉に一瞬、呼吸が止まった気さえする。
彼女が涙する理由が、『怖さ』ではなかったことに、今更のように気付く。
返す言葉が見つからない。
何と言えば良いのか――分らない。
ただ、彼女の感情が、心が、激しく揺れ動いているのが分かる。
己の、心も――――
「あたしといたから、あんな姿になったなんて……なりたくなかったのに、あたしと、いたから…………」
「ノリ…………」
それは――確かに事実だ。
否定のしようもない……だがそれを、ノリコの責にしようと思ったことなど、一度もない。
しかし、今、それを口にしたところで、何も解決などしない。
「【天上鬼】って、みんな恐がってた。すごい破壊力もって、各国が捜してて、戦いの道具に使おうとして……そんなものに、なりたいわけない――!」
ノリコの感情が昂ってゆく。
言葉が溢れ、止まらない。
消え入りそうだった声音が次第に大きく、強く、なってゆく……
彼女の言葉を聞きながら、イザークは戸惑い、狼狽えていた。
吐き出された言葉は、もう元には戻らない。
聞いてしまった『事実』を、無かったことには出来ない。
初めて会った頃とは違う。
ノリコはもう、日常を送るのに困らない程、言葉を覚えてしまっている。
今まで、何気なく聞き流していた人々の話や、ただの噂程度のものも、理解できる程に……
どんなに強く言い聞かせようと、どれだけ誤魔化そうと……もう、通用しないだろう――
そう思えても尚、イザークは『全てを話す』決心がつかなかった。
「嫌がってたの分かる、おばさんのことや発作の時のことや――――一生懸命我慢して、つき合ってくれてたのに、あたしったら……」
心が咎める――
俯き、言葉を重ねるほどに、感情の波が高まってゆく。
声が震えている。
どうしようもなく押し寄せてくる、自己嫌悪に苛まれてゆく……
「好きだって言ったり! なんで答えてくれないんだろうかなんて、呑気なこと考えて! イザークの気も知らないで!!」
自分を責めるような言葉しか出て来ない。
……そうとしか思えない。
苦しくて、ただ……苦しくて……胸が締め付けられる。
その苦しさを吐き出すように、ノリコは声を上げ続けていた。
押さえつけられていた『想い』と共に、堰を切ったように流れ出す感情が、イザークに取り付く島を与えてくれない。
「ノリコ!」
とにかく、このままで良いはずがない。
こんなに感情を昂らせたままでは、碌に話も出来ない。
「落ち着け!!」
泣きじゃくる幼い子供のように、拳で涙を拭いながら言葉を繰り続けるノリコの両の腕を取り、イザークは自身にも言い聞かせるかのように、そう言っていた。
「あたし、これから一人でやってく!」
だが、そんな簡単な言葉で、鎮められるわけなどなかった。
「言葉も覚えたし、生活習慣も覚えたし、なんとかなる!!」
昂る心のまま、必死に、有りっ丈の力で、イザークに掴まれた手を引き抜こうとする。
彼から離れようと……必死に――
「ノリコ!」
彼女の名を、イザークは留めるかのように、強く、呼んでいた。
振り解こうとしているその腕を、引き寄せる。
言葉が理解できるようになった彼女に、何と言えば落ち着いてもらえるのかも分からぬまま……
「あの女の言葉は口から出まかせだ! 本気にするな!」
自分でも、説得力などないと分かっている言葉を、口にしていた。
涙で潤んだ瞳を大きく見開き、彼女が問い詰めるように見詰めてくる。
「じゃ、言っていい!? みんなに!!」
『嘘だ!』と、そう言わんばかりに訊ね返してくる――
「あたしは島の娘じゃなくて異世界人で、飛ばされた場所が樹海の大きな根の下で、金のコケが一面に生えてる、【目覚め】が現れるって言ってた場所、そのものだって!!」
「ノリコ!!」
激しく突き付けてくる――『本当のこと』を……
自分が、【目覚め】であることを――
「分かった――分かった!!」
彼女の二の腕を掴み、顔を背けながら、イザークは思わずそう言っていた。
もう、隠し通すことは出来ない――そう、悟る。
話さなければならない時が、来てしまった。
何の準備も出来ぬ内に……いや、ただ先送りにして来ただけだ。
その『ツケ』が、今このような形で回って来ただけなのだ。
「――正直に言う……」
イザークは何かを恐れるかのように顔を背けたまま、口を開いていた。
***
イザークの言葉を待った。
まだ、涙の消えぬ瞳で彼を見詰め、イザークがこちらを向くのを……
ちゃんと眼を見て話してくれるのを、待った。
それがどんな内容であろうと、どんな言葉であろうと――彼の口から直接、聞きたかった。
「……そうだ」
作品名:彼方から 第三部 第九話 改め 最終話 作家名:自分らしく