夢 ~シュレーディンガーの猫~
「俺とお前には、子供が出来なかっただろう?今更何言ってんだよ眞衣……」
「嘘……、だって、記憶にあるちゃんとある!あの子の残した思い出が!」
「あの子って……。お前、頭でも打ったんじゃないか?」
全身から血の気が引いていくのがわかった。涼助は知らない……。では、誰との子だというのだ。いや、それ以前に、本当に、あの子は存在していたのだろうか……。
「違うの、涼助さん、落ち着いて聞いてください。私、正気です」
「えぇ?正気じゃないよ、お前……」
「聞いて。私の子供の私物が……、ていうかね、子供がいた事を証明する、何もかもがないの。何も残っていないの」
「本当、大丈夫か?」
「声も顔も覚えているの。名前……、そう、名前だけが思い出せない」
「名前も思い出せない子供って、何なんだよ。夢の話でもしてるのか?俺をからかってるんじゃないよな?」
「どうして……。いるじゃない、私達には……、あの子が……」
「もしもし?おい、眞衣?もしもし?大丈夫か?」
まだ何かを喚いている携帯電話が、眞衣の手の平からすり落ちていった。
眞衣はそのまま泣き崩れる……。
確かに生んだ。あの子を育てた。年は十四歳。笑顔のよく似合う可愛い女の子で、素直でとても親思いの優しい子だった。
「ごめんねえ……」
忘れていて、ごめんなさい。あなたを忘れるなんて、ありえない。母親失格ね。それでも、あなたを愛しているよ。誰の記憶にいなくても、私はちゃんと覚えているし、二度と忘れるものですか。
襲い続ける頭痛に、眩暈がしてきた。
眞衣は、まだ喚いている携帯電話を一度切って、母親へと電話を繋げる。短い着信音の後、すぐに母親の声が眞衣を出迎えた。
「お母さん、あのね」
「あら、眞衣なの。久しぶりねえ」
「お母さん聞いて……。私には、子供っている?」
「え?」
「だから、私に子供はいるの?いないの?教えて」
「ちょっとあんた、大丈夫?」
「答えてお願い。子供は」
「子供はいないでしょう?涼助さんとの間にできなかったじゃないの……。なあに、今更」
「そう……。じゅあ、お母さんには、孫はいないのね」
「そうよう。なに、どうしたの、突然?」
「ううん、何でもない……。頭痛いから、もう切るね」
とにかく、落ち着く事を優先しようと思った。確証はないが、おそらく誰に尋ねても返される答えは同じだろう。私以外は、誰も覚えていない。肝心の私自身こそが、さっきまで忘れていたのだから。
お母さん……。
何となくではあるが、思い出してきた。毎朝泣いて起きる日常が始まった、あの数週間前から、あの子は忽然としていなくなったのだ。私の本能的な部分が、それを嘆いていたに違いない。
幼い頃から、今に至るまで。確実にあの子の残していった記憶が蘇りつつある。
眩暈がひどくなっている。頭痛も治まる気配はない。眞衣は、膝から崩れるようにして床に座り込んだ。
両手で床に這いつくばりながら、それでも尚、記憶を辿ろうとする。冷汗が、雫となって床に落ちていく。
お母さん、お誕生日、おめでとう……。
ありがとう、…、……。
お母さん、ごめんなさい……。
いいのよ、…、……。
お母さん、だあい好き……。
お母さんも大好きよ、
あやめ……。
「あやめ!」
眞衣は顔を上げ、咄嗟にその名を叫んだ――。
そう、それこそが眞衣の人生で最も愛した愛娘、あやめの名だった。
激しく眩暈が襲うなか、耳鳴りがひどくなっていく。頭痛が更に激しく躍動を始めた時、目の前にまばゆい光の塊が視界の全てを覆いつくした……。
3
気が付くと、ベッドの中にいた。カーテンから覗く窓から朝日が洩れている。眞衣はすぐに手で自分の頬を触ってみた。
泣いていない……。
覚えているからだ。
自分はあやめの母親である事を、しっかりと覚えている。どくどくと血液中の酸素が巡回していくのがわかる。心臓は激しく鳴り、額には汗が滲んできた。幸運な事に、今日は休日だった。
眞衣は朝食を取らずに出かけようかと思ったが、時間がまだ早い事に気が付いて、ホットコーヒーを飲む事にした。精神のどこかしらで、落ち着こうとする自分がいる。
アンティーク時計の針が午前九時を回ったところで、眞衣は市役所へと向かった。
電車に乗っている間も、タクシーに乗っている間も、あやめの事を、今はあやめという名前の事だけを忘れないように意識した。
ようやく、市役所の窓口にて順番が回ってきた。眞衣はあらかじめ市役所に着いてから記入しておいた住民票の申請書を出した。
「住民票ですね」
「あの、すみません、出生届も欲しいんです」
「出生届ですね、では、……ここに記入して下さい。住民票はただ今お出ししますので」
手渡された住民票には、眞衣の名前しか載っていなかった。
「あの、新内さん?」
「はい」
「ご出産は、されていませんよね?」
「出産、……しました。一人、娘を生みました」
「変ですね、ですが、新内さんからの出生届は一件も出されておりませんけれど」
「娘は、いない、という事ですか?」
「……ええ、はい」
周囲の鋭く突き刺さるような視線から逃げ去るようにして、眞衣はその場を立ち去った。
あやめは、いない。
それがこの日本国憲法の定めた答えだ。
眞衣ははっと我に返る。
銀行の手帳……。そこに児童手当が記されているかも知れない。
国民健康保険はどうだろうか。
母子健康手表は、まだ何処かにあるはずだ。
思考を巡らせながら、銀行に着いた。だが、目当ての児童手当の形跡は皆無だった。
眞衣は、ごくり、と唾を飲み込む。本当に、あやめという我が子がいたのだろうか。
いたのなら、なぜ証拠が一切ないのだ。思考が破裂しそうで精神が悲鳴を上げたがっていた。政府が、関わっているとか。まさか……。
それならば、私の頭が可笑しくなったという方が、よっぽど納得がいく。
全ては、私が作り上げてしまった、妄想なのか。
思考では弱音を吐きながらも、その指先は携帯電話で友人の番号を弾いていた。
着信が鳴る。
「眞衣?」
「ゆう子、聞きたいんだけどさ……」
「うん、なに?」
「私さ、……子供、生んでないよね?」
「生んだじゃーん」
「え!」
「たまごっちで」
「……はぁ、そうじゃなくて、本当によ」
「独身貴族でしょう、眞衣は。私も子供欲しいわ~。気持はわかる」
「そう……。ありがと」
「え? 眞衣?」
携帯電話をオフにして、それを鞄にしまった。信号が青に変わったので、とりあえず、歩き始める。
妄想だった。
あやめ、妄想なんだ。
そうか。何だか、深い納得感があった。
最近、眞衣は激しく疲労していたのだ。
そうか、妄想。作り上げた夢の話か。
今日、自分の持ち得る全ての情報証拠がそれを証明してくれた。
そうか。
妄想だったのか。
納得はできる。今ならば。
夢なのだ。
あやめという、あの子は。
夢の中でだけ、私はあの子の母親であった。
確信に近かった感覚は、もうない。
妄想なのだから。
妄想なんだって。
本当の子供みたいだったね。
でも、それは妄想。
作品名:夢 ~シュレーディンガーの猫~ 作家名:タンポポ