夢 ~シュレーディンガーの猫~
単なる、疲れが見させてくれた安らぎなのだ。
全ては、妄想なのだ。
それでは。
では、なぜ。
私はまだ、泣いているのだろう……。
クラクションが激しく鳴らされる――。何台かの自動車が玉突き事故を起こしたようだった。ちょうど眞衣が赤信号の真ん中を過ぎた頃の出来事だった。
眞衣は無傷だった。
だが、急に激しい頭痛に襲われる……。きいんと耳鳴りも襲ってきた。
周囲の喧騒が嘘のように閑静に受けて取れた。
誰かが、中年のおじさんが叫んでいる。
眩暈が酷い……。
そういえば、こんな交通事故が、最近も起きた気がする……。
その事故で、確か私は、死んだ……。
お母さん!お母さん!
あやめが、泣いていて……。
そうだ、いるじゃないか――。
激しい頭痛が眩暈も伴って襲い掛かってくる……。
あやめの顔が、ぼんやりと思い出される……。
痛烈な耳鳴りで、何を必死に叫んでいるのかが聞き取れないが。
お母さん、という、母を呼ぶその声だけは聞こえなくてもよくわかった。
「おおい、君、大丈夫か! ぼうっとしてたら危ないよ」
「いたじゃないか! あやめは!」
その瞬間、耳鳴りがこの世の全ての音を支配し、激しく躍動する頭痛がピークを迎えて、視界も眩暈が酷くよくわからなくなっていった時に、まばゆい光の塊が、眞衣とその全ての世界を取り囲んだのだった。
4
「ここは……、何処?」
『初めまして、新内眞衣さん』
「あなたは、誰ですか?」
『私は、管理者』
「ここは何処なの? 霧の中?何も見えないけど……」
『何も見る必要がないから見えないだけだよ』
「そうだ、あやめは!」
『まいったな……。ついに、あやめさんの事を思い出してしまったね』
「じゃあ!え!やっぱり、あやめは存在するのね!」
『厳密には、存在した、というべきかな』
「今は、あやめは何処にいるの! 会わせて!」
『あやめさんはね、四週間前の交通事故で、亡くなったんだよ』
「嘘、嘘よ……」
『嘘ではない。嘘は存在できない空間だよ、ここは』
「あの事故では、私が死んだんじゃない!」
『おーおー、そこまで思い出すとは……。イレギュラーだな』
「あやめは何処!何であやめが事故にあった事になってるの!」
『まあまあ、落ち着いて。今のここはね、君が引き起こしたパラドクスの一種にあたる一時的な空間だ。そこに私達二人はいるのです』
「パラ、ドクス?」
『君が事故に遭った日、もう死にゆくだけの眞衣さんに、あやめさんは何度も何度も、それもかなり強烈な思念で身代わりになる未来を望んだ……』
「まさか、それで……」
『君は生き返り、傷跡も記憶も消え、事故に遭わなかったという未来へと転換した。そして同じように、あやめさんの存在の全ては、君の世界から消え去った。つまり、君の元居た、君が事故に遭ったという世界を書き換えて、あやめさんが代わりに亡くなったというわけさ。もちろん、その世界から眞衣さんの全ての記録は消えている。事故に遭った世界に、あやめさんが残ったわけだね。死という形をもって』
「何でっ、やめてお願い! あやめを生き返らせて!」
『無理を言いなさんな。あやめさんに同情したから、こうしたんだ』
「そんな事が、本当に起こったの!あなたは神様なの、それとも死神?」
『まあこの世の中では実にポピュラーな事象なのですが、記憶の消失が働きますからね、あなた方にはいつだって新鮮な話になるでしょう。しかし、記憶が残ってしまうのはイレギュラーだ』
「あやめを生き返らす事は出来ないの!」
『ふむ……。では、シュレーディンガーの猫は、知っていますか?』
「……知らないわよ」
『人間の魂はね、量子によく似ていてね……。ようは、観測、その量子の動きを観測してしまうと、量子の動きは収束してしまうんだ。しかし、観測していないと、量子は違う動きを始める。君達の世界でも、二重スリット実験とか、研究はいいところまで進んでいるだろう』
「全く、わからないわ。それより、あやめを何とかして欲しいのねえお願いだから!」
『ストップ。まず知るといい、この世界の仕組みを……』
『まず、フタ付きの段ボールの中に、①猫を入れる。②一時間以内に五十%の確率で崩壊する放射性物質と③原子の崩壊を検出すると青酸ガスを出す装置を中に入れる。
そうして段ボールのフタを閉めると、一時間後には生きている状態と、死んでいる状態が一対一で重なり合った状態の猫という、不可思議な存在が出て来る。量子はね、決して途中経過を観測できないものなんだ。それは、人間の魂も同じさ。
段ボールのフタを開けたままでは絶対に観測できない。それは、猫の生か、猫の死かという二択の結果があり、どちらかに結果が収束するだけであって、本来の働きを見られない。だから、フタをする。一時間以内に五十%の確率で崩壊する放射性物質と、原子の崩壊を検出すると青酸ガスを出す装置。中には更に猫。さあ、フタを開けるまでには、実質上、生きていると同時に、死んでいる猫が存在する事になる。これは思考実験だからね、もちろん猫を実際に扱って殺したりはしない。このシュレーディンガーの猫という思考実験は、量子力学の確率解釈を批判する為に生まれた秀逸な思考実験なのさ』
「それが、一体何? 何の関係があるの?」
『つまりね、シュレーディンガーの猫の、生と死が重なり合った状態の説明がついてしまうのが、量子とは少しだけ違う、人間の魂なんだよ。答えはこうだ。
観測者によって、生きている猫を観測した観測者と、死んでいる猫を観測した観測者の、重ね合わせ状態に分岐する、という、他世界解釈さ。言い方を変えるとしたら、パラレルワールドになる』
「パラレルワールド?あやめはそこにいるっていうの?」
『その通り。交通事故という生死を分けるその時に、魂と魂が同じ箱に入ったんだと思えばいいよ。答えは簡単さ、片方は死に、片方は生き残る。その事象を壊さないように、お互いがパラレルワールドを形成しながらね』
「あやめは、なんて?」
『説明を聞いた後で、泣いていたよ。また君と会えなくなる事を嘆いてね。でも、目の前にある君の死の方をどうしても受け入れられない様子だった』
「あやめを生んでね、一年は父親にも手伝ってもらったんだけど、あの子が一歳になった頃からは、私一人で育てて来たのよ……」
『君のパラドクスが生んだこの空間はそう長くは続かない』
「あの子が怪我をした時や、泣くのを我慢できた時や、あの子が何かに一生懸命に打ち込んでいる時や、あの子にお母さん、と呼ばれる事。全部が、私の宝物なの……」
『納得してくれたのかな?眞衣さんの記憶は消さなきゃならない』
「交通事故という、生と死を分け隔てるその時に、魂が二つ、今も箱の中にあるのでしょう?だって……、あの子が奇蹟を起こしたのは、私が死んでからだもん……」
『……』
「代わって。あの子は生きるべきなの」
『眞衣さん、できないよ。あやめさんに何て言ったらいいんだ』
「あやめがいない人生なんてね……、あやめを忘れ去ってしまう人生なんて……。もう新内眞衣の人生じゃないのよ」
『できない。約束してしまったんだよ。ここは嘘のつけない空間で』
作品名:夢 ~シュレーディンガーの猫~ 作家名:タンポポ