その両手をポケットにしまいたい。
「お金が、あまり無いからね」稲見は、人工的に微笑んだ。「警備員をしてるんだけど、ああ……。あのね、乃木坂工事中に当てはめて、あえて、職業をガードマンにしたんだそうだよ。ダーリンがね。乃木坂工事中を、ガードします、てね。その前は引きこもりだったらしい」
「あの人……、姫野氏、アニヲタだった、て、聞いたことある気がする……」
「その頃だね、きっと。引きこもりだったのは」稲見は顕在的に鋭い眼で、優し気に飛鳥に頷いた。「とにかくお金が無い奴だから……、長期戦になると、心配だね。でも、長期戦になろうが、どんなに辛かろうが、いずれは、乗り越えないといけない課題だから」
齋藤飛鳥は、顕在的に愛らしい瞳を丸くして、口元を尖(とが)らしながら、納得している。
「私は敵を倒した者より、自分に勝った者を、勇者とみる……」稲見はそう言ってから、珍しく自慢げに、飛鳥に笑みを浮かべた。「自分に勝てるかどうか……。そんな逃避行だと思う……。さあ、何の言葉だったか、わかる人」
「何?」飛鳥は瞳を見開く。
「私は、敵を倒した者より、自分に勝った者を、勇者とみる」稲見はもう一度言った。
「はいはい!」夕が磯野との小競り合いから脱して、挙手をした。「ほんと幼稚……。ていうのが口癖の美少女の知識!」
齋藤飛鳥は、「ああ」と笑みを零して頷いていた。
「あの頃君を追い回した!」磯野が興奮して言う。
「お前ならそうだろうな」夕は納得する。
「あの頃、君を追いかけた、だね。正式には」稲見は無表情に戻っているが、機嫌は良かった。齋藤飛鳥と過ごせるひと時である。機嫌が良いのは無論であろう。「飛鳥ちゃん、もう一杯、いかが?」
「ああ、じゃあ、何か…もらおうかな……」飛鳥は、手元のメニュー表を開いた。「何にしようかなー……。んー、イナッチは?何飲みます?」
「ラムコークだね」稲見は即答した。
「あー俺もラムコークね、イナッチ」夕が、磯野との会話を中断して稲見に言った。
「俺も」磯野も稲見に言う。「ラムコークな」
「いっつもそれだね……」飛鳥はメニュー表に視線を向けたままで呟いた。「わてもそれにしよっかなー……。でも、甘いの、苦手だしなー……。どうしよ」
「ジンライムの、ガムシロ抜きなんかもいいよ」稲見は飛鳥に提案する。飛鳥は一瞥もしないで唸っていた。「今日は酔うといいよ……。使用人が四人もいるからね」
「あと一人は誰?」飛鳥が、ふいにメニュー表から顔を上げて稲見にきいた。「四人?」
「俺と、夕と、波平と」稲見は、小さく天井を指差して言う。「イーサン。四人目の使用人だ……。いや、一人目、というべきかも……」
「駅前さんがいたら、メイドか?」夕が面白がって言った。「むちゃくちゃ似合ってないか?駅前さん、T大出てるから、頭脳明晰だし、綺麗だし……。ま、見た目、はな」
「ジンライムで」飛鳥は稲見に伝える。「強いの?」
「まあまあ」稲見が答える。「ロックだからね。強さは、まあまあ」
「まあまあなんて!とんでもござあせん!イナッチはケンカ弱すぎでござあす!」磯野が面白がって言った。「てか、ケンカしたことすら、ありまっせん隊長……。ダサ坊であります隊長!ひ弱のクソっカスでござあす隊長!」
齋藤飛鳥は「ふうん」と頷きながら、電脳執事のイーサンに注文をしている稲見瓶を見つめた。磯野波平は興奮しながら「大変でござあす隊長!十八でカツアゲにやられたとの情報もあります隊長!」と叫んでいる。風秋夕はそれを嫌そうに眺めていた。
稲見瓶が、元の席に戻った。磯野は大笑いを続けている。
「お前もさ、怒れよ、少しはさ……」夕が呆れたように、稲見に言った。
稲見瓶は、眼鏡の位置を直してから、答える。「怒ることは容易い……。しかし、適切な相手に……、適切な度合いで……、適切な怒り方をすることは……、容易くない……。さあ、何の言葉でしょう。わかる人」
2
常緑性(じょうりょくせい)の常緑針葉樹(じょうりょくしんようじゅ)が立ち並ぶ夕暮れに、多くの樹種がごうごうと音を成す強風にその樹木に集う枝葉を暴れさせている。
昼間の殺人的だった日照りも、今は何処かにか飛散し、吹き抜ける風が誘う木々の枝葉の擦れ合う音が、これまた夕焼けの森林にて、新進気鋭の音楽団のアンサンブルのように、至る所で事象として響き渡っていた。
姫野(ひめの)あたるは、これ以上に夏を涼しく感じた事がない。夏のこの秋田にある、山の麓(ふもと)のキャンプ地の雰囲気が、姫野あたるの大のお気に入りであった。
徐々に暗さを増していく、まだ幽(かす)かに茜色の空も、<センター>に灯(とも)った光増していく常夜灯の灯りも、全てが大自然の一部となって、姫野あたるの脳裏に多大な影響を与えていることだろう。そもそも、自然とはそういうものだと理解している。
だからこそ、ここにいるのである。卒業という、定めにも近しい難題を抱えて。
姫野あたるは、先程から何度も風に攫(さら)われそうになるブルーシートを敷くのを諦めて、一息つくつもりで、煙草に火をつけた。
久しぶりに、肺胞の奥底にまで、煙草の煙が染み込んでいくようだった。
また、頬(ほお)に一筋の雫(しずく)が、零(こぼ)れ落ちた。
暗黒に染まりかけの森林を見つめたままでいると、<センター>から陽気な声の男が現れ、姫野あたるの隣にて、立ち止まった――。
彼も、素早く風を遮(さえぎ)るようにして、身を屈め、ライターの火で煙草に火をつけていた。
「夏男(なつお)さん……」あたるは横の友人を、ちらりと一瞥もせずに、視線を景色にセッティングしたままで、囁(ささや)くように言った。「卒業って、何ですか……。何でしなくちゃいけないんですか。年齢なんて、言わせませんよ……。俺だってもう二十六だし、人は、生き物ならみんな、年を重ねます……。それでいいんじゃないんですか?年上のメンバーもいれば、年上のファンだって、超大勢いますよ……。年の若い子達が次々に加入してくる。上も広がる、下の世代も広がってく……。これが、今の僕が出した答えです。ダメ、なんですか、それじゃあ……」
夏男(なつお)と呼ばれたこの四十代の初老の男は、茜富士馬子次郎(あかねふじまごじろう)という。風秋夕の父である風秋遊(ふあきゆう)、稲見瓶の父である稲見恵(いなみけい)、磯野波平の父である磯野(いその)かつおの、古くからの大親友であった。彼もまた偶然か、それとも、姫野あたるに導かれての必然か、古くから慣れ親したしむこの地に、今は一人で遊びに来ていた。二人が遭ったのは姫野あたるが<センター>に到着した、昨日の晩のことである。
「ダーリン……、本当に怖いのは、卒業を決意した、本人達だよ」
「わかってます。わかってはいるんです……」
「あんまり知らないんだけど……、誰推しなのう?聞いてもいい?」
「自分は、箱推し、です……。全員が好きなんです……」
作品名:その両手をポケットにしまいたい。 作家名:タンポポ