その両手をポケットにしまいたい。
「ああ、うん。俺もモーニングは箱推しだったんだよ」夏男は笑顔でそう言うと、あたるの方を見て、またにこやかに笑みを浮かべた。「ダーリンは、昔の俺によく似てる……。俺もね、モーニングが卒業する度に、ここに来て、気持ちを落ち着けたり、爆発させたり、リラックスさせたりしてたんだ」
「夕の親父さん達と、ですよね……」俯(うつむ)きながら、あたるは言った。「どうするんですか?気持ちの整理、したいけど……。うまく、できなくって。どうやれば」
「卒業しちゃったら、ダーリンの気持ちは変わっちゃうのう?」
夏男は、そう横目で窺うように、姫野あたるを一瞥してから、長い息で煙草の煙を吐いた。
姫野あたるは、煙草を口元に持っていく。その眼は数歩先の砂利の地面を見つめていた。
「気持なんか、変わるもんか……。ありえない」あたるは苦そうに顔をしかめて、煙を鼻から噴き出した。「そんなに軽くないですよ、僕は……。人見知りが、乃木坂に一目惚れしたんですからね。気持なんか、卒業で変わるくらいなら、悩まない……」
「なら、卒業を見送れるんじゃないのかなあ?」夏男はまた、指先に挟んだ煙草を口元に持っていく。「大事なことだよ、とってもね。卒業するメンバーに対して、嘘をつかないってことは。ずっと応援するからね、て言ったら、見送った後も、また好きでいられるじゃない?」
「乃木坂のままじゃ、ダメなんでしょうか……」あたるは、夏男の顔をちらり、と見た。「僕は、変化が、怖い」
「ウパが、昔、言ってたよ……。あ、ウパって、夕君のお父さんのあだ名なんだけどね」
姫野あたるは、強く吹き込んだ一陣の風に、肩を窄(すぼ)めて両目を瞑(つぶ)った。
夏男も、突然の強風に、顔を風と逆方向に反らしていた。
「変化こそ、進化の何たらだって……。まあー、肝心なとこ、忘れちゃったんだけどさ。要はさ……、変化を恐れてたら、更なる新しい未来は見れない、て……」
止んだ風に、姫野あたるは眼を瞬かせて、開く。薄暗い景色が、滲んで見えた。
姫野あたるは、自分の顔を覗き込んだ夏男に、少しだけ躊躇して言う。
「今のままでもいい……。充分に幸せです……。まいやんが……、かなりんが、いてくれた方が……、絶対幸せです」
「それは、ダーリンの幸せ、でしょ?」
姫野あたるは、俯き顔から、隣の夏男を見上げた。
「乃木坂の人達は、未来を常に、夢見てるんだと思うよ……。その時、その時、そのタイミングで、次にしたいこと、叶えたい方向に、向かいたいんじゃないかな……。なんせ、乃木坂になる、ていう夢を、既に叶えちゃった人達なんだしねえ」
「みんな、泣くんですよ?」あたるはそう言って、煙草を地面で踏み消してから、その吸い殻をズボンのポケットに仕舞い込んだ。「卒業される、ファンはもちろんとして……、卒業する本人も、その仲間のメンバーも、泣くんですよ?」
「……」夏男は、短くなった煙草を、ポケット灰皿に捩じり込んで捨てた。
「まなったんなんて、次に誰々が卒業したら、どうしようって、泣くんですよ?」
その声も、泣いている。
「泣けるよねえ、卒業ってえ……」
「どうしてそんな伝統みたいなことをするんですか!」あたるは、声を荒げて夏男に言った。それからしばらく沈黙して、新しい煙草にライターで火をつけた。「頭のいい夕君が、いつか言ってました……。伝統よりも利便性、それが現代に組み込まれた、システムだって」
「その比喩(ひゆ)は、たぶん経済とかの話でもぉ、してたんじゃなくて?」夏男は困ったように、煙草を吸う。「ふー……。アイドルなんかは、完全に違うよ」
「何がですか?」
「卒業は、アイドルには必ずあるものだもの。一種のぉ、伝統芸能なのかなあ?」
「生贄(いけにえ)とか、昔、してた国がありますよね?」あたるは、眉を顰(ひそ)めて、煙草を吸ってから、また言葉を続ける。「あれも伝統ですよねえ?でも、いつかは、廃止されたんでしょう?」
「待って待って、ダーリン」夏男は狼狽(ろうばい)して、苦笑を浮かべる。「卒業は、生贄と違くない?」
「伝統っていうなら、同じに定義できませんか?」
「ベクトルが違う」夏男は、顕在的な笑みを浮かべたまま、首を振った。「ダーリンは、卒業、したことないのう? あるでしょう?」
あたるは、少しだけ思考してから、答える。「小中、高と、卒業しましたよ……」
「だから、今があるんじゃない」夏男は大きく笑顔を浮かべた。「卒業してきたから、今のダーリンがここにいるんだよ?乃木坂に救われた人生が、だからあるの」
「……」
「伝統はね、それが習わしだから伝統なんじゃなくて、それが素晴らしいことだから、伝統として形が残るんだよ。夕君のお父さんのウパはね、それを、アンサーだと言ってたよ」
「卒業が、素晴らしい?」
「次へのステップ。挑戦の始まり」
「乃木坂から、消えて無くなることが、素晴らしいこと?」あたるは、不味そうに煙草の煙を吐き出した。「消えてはなくならない、っていうんですよね?奇蹟は残る、て。でも、卒業したら、乃木坂ではなくなっちゃうでしょう?」
「新しい子達が、入ってきてくれる」夏男は、過ぎ去った時代を懐かしむように、優しく、微笑みを浮かべた。「そうやって、受け継がれていく意思みたいなものが……。ああ……、遺伝子みたいなものかなあ? 自分の絶頂期に、子孫を残すでしょう?」
「それが、卒業?ですか」
「そうとも言えるんじゃないかな」夏男は額の汗を片手で拭う。「お母さんも好きだけど、生まれてきた子供も、可愛くて可愛くて、仕方がなくなるじゃない?それと似てるよ」
「四期は、確かに可愛いです……。可愛すぎますよ。でも、一期生が卒業するのは、もう、耐えられない……」
「わかる」
「このままでいいのに……。このまま、みんなでいてくれれば」
「子供はいずれ大人になって、子供を残すんだよ」夏男はうん、とあたるを、見つめながら言った。「さっき似てるって言ったでしょう。大人になって、卒業して、子供、新メンバーが加入してきてくれる」
「詭弁(きべん)ですよ、そんなの……」
「自分は卒業も経験して変化してきたのに、乃木坂の人達には、それを許さないの?」
「僕は、ただ……、卒業してってほしくないだけで」
「バイバイじゃないよ」
姫野あたるの頬に、一筋の涙が零れる。
「ちくしょう……」
「うん」
「どうしても、頭から離れなくて」
「うん」
「かなりんは、いい子だ……。可能性が沢山にある」
「うん、うん」
「まいやんは……、もう充分、乃木坂を引っ張ってくれた。もう、やりたいことに集中しても、いいと思う……」
「うん、うん」
「泣きたいのは、僕だけじゃないのは、わかってます」
「うん」
「乃木坂が……、二人が、とっても、好きです……」
「うん。わかってる」
「四期、五期が入って来ても、一緒に踊って歌って、笑ってる二人の姿が見たかった……」
「新しい人達に、バトンを渡す順番が、誰にでもくる」
「乃木坂の、ライブに行きたいです……」
「なら、君は大丈夫」夏男は、あたるに優しく微笑んだ。「ライブに、行ったことはある?」
姫野あたるは「はい……」と、弱弱しい声で返した。
作品名:その両手をポケットにしまいたい。 作家名:タンポポ