その両手をポケットにしまいたい。
「宇宙だよね……、あれって。サイリュウムが蛍光色に光を放って、その場全体を宇宙にしてしまう」
姫野あたるは、強く瞼を瞑って、下唇をきつく噛みしめる……。次々に、俯いた姫野あたるの瞼から、一つ、また一つと、大粒の涙が流れ落ちていった。
「譲らなきゃいけない、きっとそんな日が、誰にも来るんだと思う」
「一緒にやればっ、いい、じゃないですかっ……く」
「雑誌やドラマ、映画や舞台、ラジオ、テレビ出演、ソロ活動」夏男は寂し気に言った。「道を見つけるんだね、きっと……。これからの自分が、挑戦していきたいことを……。それを、君は、止められる?」
「……」
「素直に、泣けば、それが一番……、え?」
「僕のうちの家計は貧乏でした……。でも僕は高校を中退するぐらいの馬鹿垂れで……、親へ家賃も入れたことがありませんでした……」
「うん」夏男は旨(うま)そうに、煙草の煙を吐き出した。
「アニメばっかり見て……、ネットばっかりやって、ろくに働かず……、完全な引きこもりだったんです……」
「うん」
「その時、乃木坂を知りました……。ぐるぐるカーテンか走れバイシクルのキャンペーンで、全国にメンバー達が、ラジオ局に掛け合ったり、自分達で、ティッシュを配ったりして……、必死になっていました。まだ彼女達が、大きな夢を、叶える前の、彼女達でした……」
「うん」
「僕は、急に、自分が恥ずかしくなって……」
「うん」夏男は、俯いたまま、腕で顔を伏せている、あたるの頭にぽん、と手をやった。
「救われたんです……、乃木坂のみんなに……」
「最高の経験じゃない……。誇りなよ」
「それから、乃木坂繋がりで、友人と呼べる人達も、何人か出来て……。親友と呼べる四人とも、出逢うことが出来た……。乃木坂が、全部くれたんです……」
「素敵な人達なんだろうね、乃木坂の皆さんって。昔のモー娘。みたいだよ」
「夏男さんは、どうしてたんですか……、卒業の時がきたら……」
「うーん……」夏男は、顎(あご)を人差し指と親指で押さえながら、顔をしかめて考える。「なーに、してたかなぁ……。あは、怖気づいてたよね、基本」
「まいやぁん……。かなりぃん……」あたるの、しかめられた鬼のような表情の瞼から、また一つ、大きな涙の粒が頬を伝った。「大好きなんだぁ……。本当に、君達が……、笑ってくれてるだけで……、僕は張り裂けるくらい、嬉しくって……。大好きなんだよう……。ありがとう、なんて、言葉じゃ……、伝えたくないよ……」
「卒業はね……、おめでとうだ」夏男は吸いかけの煙草を、ポケット灰皿に押し入れる。「あの宇宙を創ってる、全てのファン達がさ、きっと今の君と同じ心境だよ。みんな同じ気持ちなんだ……。卒業は、変わらないよ? じゃあ、どうするう?」
「っく、……応援しまずっ!はあ、……んっぐ!彼女達の未来がっ!誰よりも輝いていげるようにっ! 僕は応援っ……しまず……っ」
「よく頑張ったね」夏男は笑顔で、新しい煙草に火をつけた。「俺が何年もかかった問題に、君はようやく、こんなに早くだよ、ね。答えを出した。立派だよう」
「七年と半年ぐらい、んっく……、かかってますけどね」
理解はしていたんだ……。こんなに長く活動を続けていれば、いずれ来る、別れのことも。
何となく、考えないようにプロテクトされていただけなんだ。
姫野あたるは、久しぶりに、毅然(きぜん)と顔を極めると、何も構わない無邪気な子供のように、大声を上げて泣いた……。
思い出は今も、心の中心部に閉まってある――。
初めてメンバーの名前を覚えた日や。
初めて恋をした日。
朝が訪れるまで、笑い尽くした日や。
許容出来ない悲しみに、打ち沈んだ日。
メンバーの活動をチェックする、幸せいっぱいの日々や。
それらを見逃した、悔しすぎる日。
年に一度くる、メンバーの誕生日、その祝いのメッセージを楽しく考えた日や。
ライブで、宇宙の一部となり、最愛を実感した日。
新シングルのタイトルが、待ち遠しかった日や。
そのシングルのセンターに抜擢されたメンバーを、心から称(たた)えた日。
そのどれもが、姫野あたるを構成している、一要素であり、骨子であり、顕著に表れる歴史ともいえた。
完全に闇に隠れた緑の木々が、大きな風のうねりに枝葉を靡(なび)かせている。その流動的な動きが、姫野あたるに、時が静止することがないことを告げているかのようだった。
宇宙は今も、拡大と膨張を続けているだろう。それはまるで、ファンという一人一人の想いを取り込んで拡張していく、乃木坂46とそっくりだ。
いつの歴史も、支持や維持や賛同だけが時代を築いてきたわけではない。争いや闘争、思想の破壊こそが、新たな歴史を生んできたのである。
姫野あたるは思う――。再生と、破壊。加入と卒業。これが、乃木坂46という歴史に組み込まれた、歴戦のシステムなのだと。
やはり、乃木坂46は、自分の宇宙であり、自分の地球そのものなのだと……。
「夏男さん」
「んん?」
「小生(しょうせい)、明日の朝、東京に帰るでござるよ」
「そっか……。本当はそういう喋り方なんだね……思い出したふふ超きしょーい」
「お礼でござる。なにとぞ、今夜の晩餐(ばんさん)は小生に作らせて下され」
「え、いいのう?」夏男は、あたるを見つめる。「何作るの?カレーがいいなあ」
「卵かけご飯」
「おい簡単なのきたなおーい」夏男は苦笑して言う。「でもありがとうねえ。頂くよ」
「小生、料理は初めての経験ゆえ、卵を割るのと、ご飯を炊くのは自分でやって下され」
「ふ、ふふう。お、おけー」夏男は不気味に笑った。
姫野あたるは、瞼に残った涙を、大袈裟(おおげさ)に腕で拭って、暗闇に叫んだ。
「いやあっほーう!……聞こえてるでござるかあー、みんなあー!」
「んー!聞こえてるよ!たぶん聞こえてる!ね!」
「とりあえず、わかったでござる! 卒業への気持ちの持ち方が!」
「そうだよ!その意気だ!」
「パンツ持ってくるの忘れたでござるゆえ!夏男さん、貸して下されぇ!」
「それは嫌ぁー!」
「では!お米を分けて下され!あと卵も!」
「えーないのう!なーんにもないじゃない、ダーリンちょっとー!」
「用意したナップサックを間違えて!空のナップサックを持ってきたでござる!草!軽いなあ……、楽だなこりゃ、とは思ったんだか、思わなんだか!大草原!」
「笑ってる場合じゃないよう!笑ってるのそれ?」
「携帯電話も、先程充電が切れたでござるー!竹!」
「ダーリン……、君。若い頃の俺より、無謀……」
「大草原!待っとれ<リリィ・アース>!」
夏男は、そんな破天荒な姫野あたるを横目に、何か嬉しくなって、吹き出した。
避暑地である為に、さすがに夜は涼しいが、やけに風の強い日だった。二人がいる<センター>の正面玄関のアーチにぶら下がっている常夜灯が、揺ら揺らと灯りを風の言うままに左右へと揺れ動かしている。
森林を住みかとする、昆虫達の美しい合唱も、心地よく夏の夜を強く連想させた。
やはり、ここの空気は最高だな――と、夏男は懐かしさに伴う儚さがあると、しみじみ想いを馳せながら、ノスタルジーな気分に浸って笑った。
作品名:その両手をポケットにしまいたい。 作家名:タンポポ