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その両手をポケットにしまいたい。

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 夏男はぽん、と姫野あたるの肩に、手を置いてから、<センター>へと歩き始めた。
 清々しく「草!」と微笑まれた姫野あたるの顔には、また大きな涙が浮かび上がっては、また、朝焼けの蔦に伝う雫のように、一つ、また一つと、乾いた砂利の地面へと落ちていくのだった。

       3

 勤続二年目になる大企業<ファースト・コンタクト>本社ビルから<リリィ・アース>までは、タクシーで一時間かからない距離にあった。風秋游CEOと稲見恵代表取締役が共同経営する世界的大企業<ファースト・コンタクト>は、完全なるアフター5制度で、残業を希望する者はいるが、決して多くはない。駅前木葉(えきまえこのは)もアフター5を愛し、それを厳守する清く正しい正社員の一人である。
 都会的な残影からしばし逃れ、タクシーの車窓からまだまだ暑そうな車外の光景をなんとなく見つめる。景色が住宅街に変わった頃に、駅前木葉の思考は仕事の研究分野から、完全に私有の思考へと変換されるのである。
 鼓動が高鳴り始め、はるやまのスーツのスカート丈を直す。荒ぶろうとする呼吸を精神集中することで鎮静化させ、思考の続きを垣間見る。この時の思考はいつに至っても変わらない、乃木坂46においてのものだった。
 正面玄関の光彩認識システムをクリアした後は、おもむろにドアを開いて、忍び込むように室内に入るのが駅前木葉の癖である。
 エレベーターに乗り込んだ後は、しばし思考が停止し、やがて見えてくる巨大な空間に思考を預ける。シロナガスクジラのはく製でも楽々と許容できであろうそのエントランスを進む頃には、思考がまた、乃木坂46のことで充満している。
 やがてまた思考が停止する時は、いつもこの時だった。
「まちゅ…さん、あ、こんばんは!」
 駅前木葉は、北側の三つ並ぶ巨大な扉のうち、真ん中の扉から姿を現した松村沙友理に気持ち大きめの声で挨拶をした。
 小さく手を振りながら、大きな笑顔で松村沙友理が、駅前木葉の立つ五台設置されたエレベーターの前まで歩いてきた。
「駅前さん、今仕事帰りですか?」沙友理は顕在的に整った大きな瞳を笑わせてきいた。
「あ、はい。まちゅ…さんは、もう来てはったんですか?」駅前はそう言った後で、目を見開いて慌てる。「やだ!関西弁になったわ何でなの!埼玉出身なのに!すみません」
「別にええで」沙友理はにこり、と言う。「駅前さんの会社って、終わるの早いですよね」
「ええ、五時です」駅前は込み上げる笑みを堪える。「笑止!」
 松村沙友理は驚いて、一歩後退していたが、その表情は笑顔を保ったままである。一年以上も付き合いがあると、こういった芸当ができるようになるものである。
 駅前木葉は乃木坂46ファン同盟の一人である。無論、こんな夢のような時間が彼女の唯一の秘密であり、特別だった。駅前木葉は<リリィ・アース>に滞在中は終始嬉しくて仕方がない。無論、それはファン同盟の他四人も同じであるが。ファン同盟の年長であり、唯一の女性でもある為か、他の四人よりも、彼女は常にこの一年間アームレスラーの結んだかた結びのように緊張をほどいたことがあまりない。
「まちゅ…さん、何処かに行かれる途中ですか?」駅前はマスクの位置を整えながらきいた。
「そう」沙友理は持ち前の笑顔で答える。「図書室? 行こうかなぁと思って」
「新しい漫画ですか?」駅前は興味深そうにきいた。
「うーん……。何やろ」沙友理は可愛らしく眉を顰める。「漫画かー……、エッセイかぁ……、何かあるかなー、と思って。えへへ」
 駅前木葉は、松村沙友理の笑顔に完全に魅了される。何秒間か、呼吸が止まった。
「あれ? 駅前さんて、今何歳でしたっけ?」沙友理は沈黙を破った。
「あ、え……ええ、二十八です」駅前は大至急で思考を回復させた。
「え、タメやん」沙友理はにこり、と笑い、人差し指をぴと、と自分の顎につけた。「私ももうすぐ二十八」
「ええ、もちろん知っています。でも私は、正確にはまいちゅんと同じ年代やねん」駅前はそう言った後で、慌てふためいて言う。「ああ!関西弁になったくそう!何でよ!埼玉県出身なのに!おのれえ!」
 松村沙友理は苦笑している。
「あの、たぶん、まちゅ、さんの関西弁に憧れてるんだと思います」駅前は頭を下げる。著(いちじる)しく興奮し、気が済んでから一瞬で鎮静化するのも駅前の特徴である。「ごめんなさい」
「いやいや」沙友理は顔をのけぞって、小さく素早く片手を振った。
「図書室、でしたよね? お引止めしてすみませんでした」
「いやあ、どうも、お疲れさまでした」沙友理は眉を寄せて敬礼してみせる。「駅前さんもゆっくり休んで下さい」
「心得ました」駅前は微笑んだ。「いい本が見つかるといいですね。それじゃあ、また」
「またねー。ばいぴちー」
 松村沙友理はそのまま、一番近い角度にあったエレベーターに乗り込んでいった。目的地は地下七階の<図書室>であろう。各エレベーターと全てのフロアの巨大扉には、室内名を示すプレートとは別に案内表記が壁に内蔵されていた。
 全てのフロアの南側の壁には、ガラスケースに入った各フロアを現すミニチュア模型もあり、案内表記のプレートの場所を押すと、ミニチュア模型の部屋が発行ダイオードで光るという仕組みになっている。いわゆる、立体的な地図だった。
 それにしても、一年以上通い詰めても、駅前木葉はここの広大な面積に慣れる様子はなかった。何しろ、風秋夕の実の父でもあり、駅前木葉の勤務する世界的大企業<ファースト・コンタクト>のCEOでもある風秋游氏が、二千五年から秘密裏に建造を開始し、十四年もの歳月をかけて二千十九年に完成した風秋夕への特大のプレゼントである。親バカにも程があるだろうと駅前木葉は思う。
 確か、<リリィ・アース>という名称の由来は、『リリィ』が架空の恋人を表したものであり、『アース』が地球、つまり巨大な住処を表したものらしい。恋人の住処、とこうなる。結果、風秋夕はその名称通りの使い方をしている事になるだろう。秋元康氏と風秋游氏のリレイションシップにより、最初に招かれた乃木坂46が齋藤飛鳥だったと、駅前木葉は風秋夕から聞いている。
 架空の恋人の巨大な住処と想定された<リリィ・アース>の名称通り、天使が舞い降りた最初の記念すべき瞬間であったのだろうが、駅前木葉はその記念すべき瞬間には立ち会ってはいなかった。
 その後、秋元康氏と今野義雄氏の公認もあり、徐々に乃木坂46の間で口コミで伝えられ、メンバーが集まるまでに発展していったのだった。
 <リリィ・アース>には二千十八年度に表彰されたスーパーコンピューターが内蔵されており、あらゆる分野で電気系統を統括管理している。代表的にいうと、電脳執事であるイーサンがそのスーパーコンピューターの総称でもあり、音声認識であらゆる要求にも対応してくれる。とはいうものの、出来る事も多ければ、まだまだ出来ない事も多いといえる。別にイーサンに不満があるわけではないが、ドラえもんが誕生するまでは仕方がない事だろうと、駅前木葉は常々思っている。
「あの、イーサン、いますか?」駅前は一定量の通常音量で空間に話しかけた。