彼方から 余談・エイジュ・アイビスク編 最終話
エイジュは屋敷の周囲をうろつく『間諜』に気付かれることなく出立し――その後、二時としない内に、ドロレフたちが屋敷へと押し掛けて来た……
『間諜』の情報を信じ、彼女が見つかるのも時間の問題と、自信満々に椅子に踏ん反り返っているドロレフ。
そのドロレフを眼前にして、クレアジータは優雅に、茶を口に運んでいる。
物事に動じない、『超然』とした態度は頼もしい限りだが、ダンジエルはその態度こそが、ドロレフが最も忌み嫌っている所なのだろうとも、思う。
迎え入れてもいない客たちが来てから、半時程、経っただろうか……
次第に、屋敷内を動き回る足音が静まり、荒々しい物音が鳴りを潜め、不安げに一塊となり、食堂の隅に集まっていた使用人たちの表情が、少しずつ、和らいでゆく。
代わりに――
一向に朗報の届かぬ気配に、大臣の顔から余裕が、失せてゆく……
募る苛立ちを紛らわすかのように、椅子の肘掛けを忙しなく、爪の先で叩き始めた時だった。
「ご報告致します!」
食堂の入り口に姿を現し、隊長と思しき男が、直立不動で敬礼をしたのは……
待ち兼ねた様に椅子を鳴らして立ち上がり、
「見つかったのかっ!」
ドロレフは開口一番、そう、言い放つ。
だが……
隊長はドロレフの勢いに少々押されたかのように、少し、どもりながら、
「い……いえ、屋敷の中はおろか、庭の隅々に至るまで捜したのですが……」
敬礼の手を降ろし、大臣の期待に反する報告内容を、申し訳なさそうに口にしていた。
「――何だと……?」
信じ難い報告に、眉根を寄せるドロレフ。
大臣の機嫌を損ねるような報告など、したくはないが見つからないものは見つからないのである。
「……大臣が仰られたような女は、どこにも……」
国の重臣の蛮声が響き渡るのを覚悟で、隊長はそう言うしかなかった。
「そんなはずはないっ!!」
両の手の拳を、怒号と共にテーブルの天板に叩きつける。
カップが揺れ、中身を零しながら受け皿とかち合い、小さな音を立てている。
ドロレフは奥歯を軋ませながらクレアジータを睨みつけると、
「貴様っ! あの女をどこに逃がしたっ!!」
指を指し、そう、怒鳴り散らしていた。
大臣の人目も憚らない大声と、自身に向けられた指先に思わず眼を見張り、クレアジータは手にしていたカップを降ろすと、
「ですから、最初に申し上げたではありませんか、契約期間が切れたので彼女は今朝早く、屋敷を出立したと……」
静かに首を横に振りながら、いつもの柔和な笑みを浮かべてゆく。
「嘘を申すなっ!」
蟀谷に血管を浮き立たせながら、がなり立てるドロレフに、
「何故、嘘と――そう、仰られるのですか?」
クレアジータも椅子から立ち上がりながら大臣の眼を見据え、そう、問い返していた。
「彼女がこの屋敷の中にいると言う確証が、お有りになるのですか……?」
笑みを湛えたまま、視線を違えずに、歩み寄ってくるクレアジータ……
まさか、屋敷の様子を『間諜』に探らせていたとも言えず、ドロレフは彼の瞳を見据えたまま、忌々し気に唇を噛み締めてゆく。
……このまま、簡単に引き下がっては口惜しさが残る。
この目障りな臣官長を、捕らえる口実はないものか……思案を巡らせる。
たとえ言いがかりと言われようとも、捕らえられさえすれば、それで……
目と鼻の先で立ち止まるクレアジータの胸を指差し、
「いいか、クレアジータ……貴様が夜会に同伴者として連れて来たあの女の渡り戦士には、この街の酒場を何軒も潰し回っていた容疑がかかっておる――被害者も、目撃者もおるのだ……」
ドロレフはその『被害者』と『目撃者』である男を、見やる。
大臣の視線に応えるように、大きく首を縦に振る、いかにも粗野な男……
同じように、その男に視線を向けるクレアジータの胸を、何度も指先で軽く押しながら、
「庇い立てするなら、代わりに貴様を取り押さえ、その居場所を吐かせるまでだが……?」
口の端を曲げた嫌味の籠った笑みを浮かべ、ドロレフはどこぞの輩に聞かせるような脅し文句を、並べ立てていた。
一つ……
小さく溜め息を吐き――
「本当に、彼女に違いないのですか?」
胸座の辺りを突いてくるドロレフの太い指先を一瞥し、クレアジータは改めて問い掛けていた。
「今更、何を言うか」
その言葉を『焦り』と見たのか、ドロレフは更に口の端を釣り上げ、鼻先で嗤い捨てる。
「あのように見場も良く、しかも渡り戦士をしている女など、そう何人もいるわけがなかろう?」
馬鹿にしたような口調でそう問い返しながら、踵を返し目撃者の男へと歩み寄ってゆく。
包帯の巻かれたその肩に手を乗せ、
「見ればすぐに分かることだ」
男と共にクレアジータを見やり、
「四の五の言わずに、早く、この場に差し出せ! クレアジータ!」
床を指し示しながら、勝ち誇ったように見下した笑みを浮かべていた。
落ち着き払い、何事にも動じることなどないように見えていたこの男も、流石に、『連行』されるのは嫌と見える……
やっと、『権力』に逆らうことの愚かさを思い知ったか。
どんなに、『超然』とした態度を取っていようとも、我が身は可愛いに決まっている……所詮、役所に勤めている身だ。
たかが渡り戦士の女一人の為に、今の地位を捨て去るほどの勇気など、持ち合わせてはいまい……
結局この男も、『力』には逆らえんのだ……
……そう、思い――自らの優位を確信し、頬が緩む。
頼りとしてきた『力』、そして『権力』。
やはり、これに勝るものはないのだと、根拠のない自信が満ちてくる。
己のものでもない『モノ』を、当てに……心の拠り所として――
***
「……分かりました」
やがて、観念したかのように瞳を伏せ、クレアジータは応えていた。
その返しに眉を潜め、ダンジエルを筆頭に屋敷の住人たちが、小さく息を呑む……
引き攣った表情を見せる連中に、ドロレフは、胸がすく思いがしていた。
主の影響を受けているせいか、この屋敷に住まう住人たちは皆、『権力』というものに対して、畏れを抱いていない。
礼儀は弁えてはいるが、それだけだ。
機嫌を取ろうともしなければ、媚び諂うわけでもない……そんな連中に、ドロレフは少なからず嫌悪を抱いていた。
その最たる者と言えるクレアジータが、今正に、『権力』に折れようとしている。
これまでの溜飲がやっと下がるのかと思うと、頬が更に緩んでゆく。
だが……
「よし……では、早速――」
「――その前に」
『この場に連れて来い』と言い掛けた言葉を、いきなりクレアジータに、遮られていた……
思わず眉間に皺を寄せ、彼を見やる。
とても――観念したとは思えない、爽やかな笑みを浮かべ、
「……その方に――」
と、『証人』として連れて来られた男に、手を向ける。
その手に釣られ、振り返るドロレフに、
「一つ、確認したいことがあるのですが……」
クレアジータは人差し指を立てながら、そう続けていた。
作品名:彼方から 余談・エイジュ・アイビスク編 最終話 作家名:自分らしく