BYAKUYA-the Withered Lilac-5
ビャクヤは、全く気が付いていなかった。虚無の身にありながら、ビャクヤほどの虚無喰いに気付かれないような気配、匂いの消し方を持っていた。
しかし、それはまるでビャクヤを襲う素振りを見せない。ただゆっくりと、ビャクヤの後を追うだけだった。
やがてビャクヤは、自宅へと帰り着く。帰宅してすぐに向かったのは、ツクヨミの部屋である。
「ただいまー。姉さん。ご飯まだだよね? 今夜は野菜スープに……て。あれ?」
ツクヨミの部屋は暗かった。彼女が仕事に使っているノートパソコンのディスプレイの明かりしか、部屋を照らすものはなかった。
部屋の主であるツクヨミは、机に突っ伏して眠っていた。書類を机のあちこちに散らし、携帯も放られていた。
「まったく。こんなところで寝ちゃって……おーい。姉さーん」
ビャクヤは、ツクヨミの肩を揺さぶった。
「……ん、んん……」
ツクヨミは、起きる気配がなかった。
「やれやれ……しょうがないなぁ」
ビャクヤは、机の上に散らばった書類をまとめるついでに眺めてみた。
夜目の効くビャクヤは、書類の文字を見ることはできるものの、意味はまるで理解できなかった。
「ダイ? ディ? 一体何語なんだいこりゃ?」
ツクヨミがしていた在宅の仕事は、翻訳である。ドイツ語で書かれた記事や小説、エッセイ等を日本語へと翻訳する、または逆に、日本語の作品をドイツ語にするという仕事である。
まだ中学生であり、英語もまともに勉強できないビャクヤに、読めるはずがなかった。
しかし、書類の右端に書かれている数字だけは理解できた。それはどうやら、年月日を示す数字のようだった。
それを見るに、〆切の日のようで、その日にちはもう明日に迫っていた。
「だから最近パソコンに付きっきりだったのか。まったく。無計画な姉さんだね。こういうのは計画的にやらないと」
怠惰で宿題を溜めがちだったビャクヤは、姉によく言われてきた。姉とは、ツクヨミの事ではなく、死別した姉さんの事である。
ーー姉さん。か……ーー
あの日の事故で、ビャクヤは最愛の姉を亡くした。
ツクヨミは、姉さんと生き写しとまではいかないがよく似ている。姉さんが生前に着ていた制服を着てくれるようになってから、ツクヨミはより姉さんに似るようになった。
しかし、ビャクヤは最近、ツクヨミと姉さんの違いを思い知らされるようになっていた。姿形こそ似ているが、やはり姉さんとの差はあった。
ツクヨミは、姉さんに比べれば言葉遣いがきつく、ビャクヤにべったりということはない。
こうして、翻訳の仕事をしているところを見ると、頭の良さは同じである。しかし、当然ながら姉さんはドイツ語は使えなかった。
いつぞや、『光輪』の紅騎士を名乗る『偽誕者』ワーグナーと戦い、彼女を下した後、ツクヨミは流暢なドイツ語を話していた。まるでそれが生まれもって親しんできた言葉であるかのようだった。
ーー姉さんは何者なんだろう? 会ってから一度も。本当の名前を教えてくれたことはないし。いや。何を考えているんだ僕は。姉さんは姉さんじゃないか。僕の好きな。世界で一番愛している人じゃないかーー
ビャクヤは、自らに言い聞かせる。しかし、ツクヨミは姿形が似ていても、姉さんとはやはり違う。
ーーStrix von Schwarzkeit(ストリクス・フォン・シュヴァルツカイト)ーー
ふと、ビャクヤの脳裏に、彼にとっては呪文のように聞こえる言葉が過った。
「なんだい。これは……?」
同時にビャクヤは、めまいを感じる。
ーーZohar Shnee Darland(ゾハル・シュネー・ダーラント)ーー
畳み掛けるように謎の言葉はビャクヤを惑わす。
ーーOhga Zweid(オーガ・ツヴァイト)ーー
「やめてくれ!」
ビャクヤは、思わず声を上げてしまった。すると、ビャクヤを苦しめていた言葉はすぐに止んだ。
「おっとと……」
ビャクヤは、口に手を当て、ツクヨミを見た。思わず大声を上げてしまい、ツクヨミを起こしてしまったかと思った。
しかし、ツクヨミは、変わらず安らかな寝息を立てていた。それを見てビャクヤはひと安心する。
ーーさっきのは何だったんだろう? ストリクスなんとか。とか。ゾハル。オーガ。なんか前にも聞いたことがあるような……ーー
ビャクヤは、曖昧な記憶をたどるが、思い出せない。だが、ゾハルという言葉は妙に引っ掛かっていた。
「ゾハル……ゾハル……はっ……!?」
ビャクヤの脳裏に、少し前にあった出来事が浮かんだ。
ツクヨミと一度、喧嘩別れした時の日の夜、悪夢を、予知夢を見て、『夜』へとツクヨミを探しにいった。
そしてツクヨミを見つけた時、彼女は真っ白な頭で、眼鏡姿の女に襲われかけていた。
ビャクヤは、顕現の糸を放ち、その女を拘束した。その後は、女の金切り声のせいで辺りの声がよく聞こえなかったが、ツクヨミは確かに叫んでいた。
ーー思い出した! あの時のセミ……!ーー
非常に耳障りな金切り声を上げ、身をよじる度に糸が体に食い込み、血を流す様を見て、ビャクヤは、蜘蛛の巣に引っ掛かった蝉のようだと思っていた。
その時に、ツクヨミは、『ゾハル』と叫んでいた。
ーーということは。ゾハルっていうのは。あのセミ女の名前かな? すると。さっき浮かんだのは。人の名前?ーー
ビャクヤは、一つの考えにたどり着いた。もしも先ほど頭に響いた言葉が、ツクヨミに関する人物の名前であるのなら、ツクヨミの本当の名はどちらか、ということになるのではないか。
オーガ、というのは違う気がした。となれば残るは一つ。
ーーストリクスーー
ビャクヤは答えにたどり着いた。
「……これが姉さんの。本当の名前?」
確信を得るにはまだ弱い気がするが、流暢なドイツ語を操れることを考えると、ツクヨミは外国の生まれである可能性が高い。
「だけど。どうして急に……」
ツクヨミの本当の名と思われるものが、何故、何の前ぶりもなく浮かんだのか。その問いの答えには至れない。
「ん。これは……!?」
ビャクヤは不意に、顕現の気配を感じた。それと同時に、強烈な視線も感じる。
それらを感じるのは、窓の外、数件離れた所にある家の屋根の上。闇夜にその身を溶け込ませてビャクヤを凝視していた。
この顕現の気配には十分覚えがあった。ほんの少し前、いつものように虚無を捕らえ、顕現を食していた時に現れたあの気配であった。
ーーバカな。ここは『夜』の外のはずじゃないか。どうして虚無がこんな所まで来ているんだい?ーー
虚無が自らの意思によって『夜』の外に出るなど、『夜』の存在を知って日の浅いビャクヤであったが、あるはずはないと思っていた。
更に挙げれば、『夜』の入口となり得るのはほとんど決まった場所であり、どこでも『夜』となることもない。故に、ビャクヤの自宅付近が『夜』になったわけではない。
いよいよ相手が、ただの虚無ではないと思われるようになってきた。自ら『夜』から抜け出し、現実へとやって来た虚無は、最早『偽誕者』とそう違いはない。
作品名:BYAKUYA-the Withered Lilac-5 作家名:綾田宗