GLIM NOSTALGIA
ため息をつきつつ、アルフォンスは素朴な疑問を抱いた。兄は今日、司令部に顔を出したはずである。それなのに今さら軍の人間から手紙が届くというのは、どういうことなのだろうか。その時伝え忘れた何かがあるのだろうか。だが、そうだとしてもやはり妙な話ではある。なんとなれば、司令部の中枢たる面子は、兄弟がこの宿に泊まっていることを知っているのだから、電話で呼び出してもいいところだ。イーストでこの宿を使うのはもう五回目くらいになるだろうか、だから、宿の主人もうすうすとはエドワードが軍属であること――までは無理でも、軍に係わりがある少年だ、ということは理解しているのだ。
だが、それなのに、この夜更けに、手紙とは。
何やら良くない方の予感がしたが、とにかく放っておくわけにもいくまい。ふぅとため息をつくと、彼は兄の意識を浮上させるべく、ある言葉を口にするのだった。
豆――という言葉で現世へ呼び戻されたエドワードは、不機嫌そのものの顔で宿泊している部屋がある三階からフロントのあるラウンドフロアまで階段を下りていた。
しかし別に、不機嫌の理由は「豆」という禁句にだけあるわけではなかった。そうではなくて、…突然やってきた軍人に対する不機嫌だ。
エドワード宛の手紙を確かめてみれば、至急、かつ内密に面談したいことがあり、フロントで待つ、という内容だった。さすがのエドワードも驚いた。その不審さに。しかも差出人は聞いたこともないような名前だった。つまり、少年にとってなじみの深いマスタング陣営の者ではない、ということだった。とはいえ、元々目的があって軍属になりはしたものの、軍と馴れ合うつもりはさらさらないエドワードである、軍には知り合いの方が少ないのだが…。
とにかく、いきなり現れた見ず知らずの軍人の急なやり方に、エドワードは腹を立てていた。こんな安宿のフロントで待っているというのもこれ見よがしで嫌なやり方だ。宿の主人に迷惑がかかると、居心地の良い安宿から次回からの宿泊拒否を食らいかねないではないか。…無論、読書の邪魔をされたことと、弟に禁句を口にされたことでの八つ当たりもないとはいえなかったのだけれども。
フロントといっても、小さなカウンターがあって、その前に申し訳程度にソファとテーブルが一組置かれただけの狭い空間である。そのクッションのとうに効かなくなった椅子に悠然と一人の銀髪の男が腰掛けていた。黒いコートで服装自体はよくわからないが、恐らくあの下には青の軍服を着込んでいるに違いない。フロントには、その男以外誰もいなかった。
「…サー・アダムス?」
せいぜい嫌味のこもった、可愛げの欠片もない口調で少年は呼びかけてみた。この安宿の中、階級をつけて呼びかけることには抵抗があったのも事実だが、滅多に口にしない「サー」などという呼称をつけたのは彼なりの拒絶だった。相手にはどうとられるかわからないが。
銀髪の男はゆっくり立ち上がった。
そして振り返った顔、全体の風貌を見て、何となくエドワードは目を瞠ってしまった。あまり軍人らしからぬ様子の男だったからかもしれない。
「やあ。はじめまして」
懐こくすら見える顔で笑ったのは初老の男で、何と言うか…俳優が軍人を演じたらこんな風だろうか、というような雰囲気を持った人物だった。要するに、あまり軍人らしくない、ということである。
「夜分すまない」
しかも上官だというのにこの態度はなかなか珍しい。仮にも「大佐」の地位にあるのなら、もっと居丈高でもおかしくはない。
エドワードは、もう一人、彼に比べれば身内といってもいい男のことを思い出していた。少年の後見を以って任じているらしいあの男も大概軍人らしくない風貌をしているが、あれは単純に童顔なのが大きいのではないかとエドワードは思っていた。童顔でさらに年齢不相応な高い地位にいるせいで、どうも何かが胡散臭いのだ。しかしそれでも、彼の内面が柔弱とは程遠いことはよく知っていたから、ロイを軍人らしからぬ軍人とそこまで思ったことはなかった。
「…自分は未成年なので。こんな時に酒とかは誘えないですけど」
どうにか不機嫌をなだめすかしながら、エドワードは挨拶めいたことを口にした。早く始めろ、だがここでも困る、といった意味合いの。
「ああ。――オレンジジュースなんてどうかね」
それに初老の男は穏和な笑みを浮かべて答えた。
その答えの内容とその表情を見て、こいつは性格が捻じ曲がっているに違いない、恐らくマスタング大佐と似たような角度で、とエドワードは結論付けた。
アダムスが少年を伴ったのは、立地としては宿から大して離れていない、入り組んだ路地の一角にある小さなバーだった。看板も出ておらず、そもそもここは店なのか、とエドワードは微妙に疑った。
それでもアダムスの素性を疑わなかったことには理由がある。つまり、彼を軍人を装った誰かだとは思わずに、軍人らしからぬが軍人だ、と思った理由だが。
それは至極単純な理由だった。
歩き方、である。
「……モチロン、これってオゴリ、ですか」
ドアを押した男の背につまらなそうに投げれば、彼は横顔で品よく笑った。
ここについてくるまででもそうだが、この男の歩き方は良く訓練されたものだった。エドワード自身は軍の訓練や教育を受けたことはないし、理屈でこうと説明できるわけではない。それに、最初男は座っていたので、歩き方をその時に見て確信したわけでもなかった。しかしうまく言葉には出来なかったが、我流や亜流ではない、「正しく訓練された」者の所作がその男には備わっていて、例えばそれは、素人にはどれだけ学んでも身に付けられるものではなかったのだ。
そしてもしもこれが軍人ではなかったとしても、とにかくひとかどの人物であることは間違いない。いずれにせよ、エドワードに接近して来た理由は明らかにする必要があった。後に禍根を残すと旅の障害にもなるからだ。
「安心しなさい。軍(われわれ)にも経理課というものが存在するんだよ」
エドワードは思わず横を向いて小さく舌を出していた。
「…ケチ」
店内は、外から見たままに狭かった。カウンターが十席に満たぬ小さな店だ。だが、店主の背中には大層な数のコレクションが整然と陳列されており、まるで小さな美術館のようなたたずまいだった。
先客はおらず、アダムスは真ん中より若干奥の席に腰掛けた。エドワードもその隣に促されるまま腰を下ろす。
「彼にフレッシュオレンジジュースを。私には、リリィを」
店主は随分と低い、深みのある声で最低限の返事を口にした。どうも、やはり、店を見てわかる通りとでもいえばいいのか、無愛想な店主だ。
「…リリーって、そういう名前の酒があるんですか」
手持ち無沙汰なのと会話の前のジャブのつもりで軽く問いかけると、男は一度瞬きをした後、奇妙に懐かしそうな顔をして、店主の背後の酒瓶の棚を見つめた。
「――昔の恋人の名前だ」
「………」
誰があんたの昔話を聞いたか、と少年は喉まで出掛かったが、賢明にも口に出すことはしなかった。
「…よくオレンジジュースなんてありますね…」
作品名:GLIM NOSTALGIA 作家名:スサ