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「、、、小殊、、。」

 口からその名がひとりでに零れた。







 そっと風が触れていくような、、

 、、、背中に優しく触れる掌の感触。



 誰かが背中に額を付ける。




 傷は塞がり、傷薬は必要が無くなった。だが深い場所で、ずきずきと疼く鈍い痛みは、ずっと絶える事が無かったが、今、誰かの手が触れた途端に、溶ける様にどこかへ消えてしまった。





──景琰の身も心も、砕かれてしまうかと思った、、。
 、、、痛かったろう?。──






「、、、あぁ、、、っ、、。」

 やっと止まったと思った涙が、再び靖王の頬を濡らす。



「お前は、、小殊なのか?、、、小殊の魂なのか?。」

 もはや林殊の死は、決定的なのかと、またさらに、絶望の闇の中に落ちていくのを感じる。

「嫌だ!、来るなっ!!、、、どこかへ行けっ!!。」
 靖王は振り払うように、座ったまま暴れる。
 じゃらじゃらと鎖が鳴り、机の上の食器やら、酒瓶が床に落ちた。
「嫌だ、、、、、どこかへ消えてしまえっっ!!、、あぁぁぁ!!。」



 ひとしきり暴れると、林殊の気配は、すっかり消えてしまった。
 静寂が訪れ、靖王の心の中は、深い後悔で満たされる。


「小殊、、、小殊、、、、、、、違うのだ、、。」
 身も心も、もうどうしようも無い。
 林殊を求めながらも、靖王の元に現れた林殊を、認めたくないのだ。
 靖王自身、何をどうしたいのかよく分からない。
「小殊、、、小殊、、小、、、、。」

━━小殊は必ず生きていると。
 必ずここに戻ると信じている。
 だが、心の奥底で本当に死んでしまったのではないかという不安もあって、、、。
 お前が死んだなんて、、私は認めたくないだけなのだ、、、。認めたら、お前は、本当にいなくなってしまうようで、、。
 お前を見たくないなんて、思ってない。

 、、、、怖い、、、怖いのだ、、。
 お前がいなくなるのが、、、、、怖い。━━








──もう、、泣くな。──
 頬の涙を拭き取る掌。




 目を開ければ、目の前の林殊は微笑んでいる。



 そしてゆっくりと唇が重ねられる。









━━偽物の林殊なのだ。━━




━━私が創り出した林殊なのだ、、、。━━
 そう思いたい。



 林殊には、あの日、靖王の掌に伝わった心音は、もう感じない。



 なのに、、、、傷を労わる様な優しさに包まれる。

━━、、、小殊の優しさだ、、、。━━



━━どんなに憎まれ口を叩いても、私や周囲の大切な者には、優しかった。
 皆、優しさは言葉だけでは無いのを知っていた。
 小殊は言葉とは裏腹に、優しかった。━━




 靖王の涙は止まらない。

 心の傷から血が流れ続けるかのように。
 



 今、深い傷を癒す者が傍に、
 心地良さと優しさに、靖王は身を任せた。



 他愛ない子供の頃の思い出と、林殊の言葉の一つ一つが蘇る。












 辺りが明るくなり、夜が明けたのを感じた。

 こんなに深く眠ったのは、いつ以来か。
 飲んだくれ、乱れ、自分の体を粗末に扱った。この頃は、夜なのか昼なのかも分からなかった。



 林殊は傍にいて、微笑んでいる。



──、、景琰、、。──



 林殊は、靖王の襟元を合わせ、乱れた靖王の髪を指で整え、顔に掛からないように、そっと後ろに流した。
 掌でぼうぼうに伸びた、無精髭を撫でた。
 そして可笑しそうに笑っている。



──景琰。
 髭をあたり、身形(みなり)を整えろ。──




 そう言うと、ゆっくりと立ち上がり、戸口の方へ歩いていく。

━━小殊、、、。
 もう、、、もう、行ってしまうのか?!。━━


「小殊!!。」
 思わず声を掛けた。

 林殊はゆっくりと振り返る。


──  、、。 ──



「何?、何だ??、小殊?、何て言って、、。」
 林殊は何かを一言言うと、そのまま扉を開けて、部屋の外へ出ていった。
 颯爽と、振り返らずに、林殊はいつもそうして、この部屋から去って行った。
 林殊が何と言ったのかは、聞こえなかった。

 林殊の口の動きを思い出し、靖王は口に指を当て、林殊の言った言葉を繰り返してみる。







 あれ程深く嘆いたのに、嘘のように、心が落ち着いている。

 靖王はゆっくりと立ち上がり、開いたままの扉の方へと歩き出した。
━━小殊はここから外へ行った。━━
 キンと張り詰めた、冷たい朝の空気が扉の外にあった。
━━もう、大丈夫だ。━━
 不安さも、心細さも掻き消えた。
 以前の強い心を、取り戻したのを感じた。

 あれ程、外が恐ろしく、一歩も出られなかったのに、今日は恐ろしさを感じず、難なく敷居を跨ぎ、裸足で外へ出る。

━━水を浴びたい。━━
 体は汚れているだろう。だが、湯に入るより、冷たい水を浴びたかった。
 早朝の王府は静かだった。
 じゃらじゃらと鎖の音が響いていく。
 誰か従者が来ても良さそうなものだが、誰一人にも会わず、炊屋の井戸まで来れた。
 従者のほとんどか、祁王府関連で連れ去られ、いくらか残った者達も、いつの間にか、黙って王府を去っていった。
 汲み上げた水で、顔を洗い、重い井戸の桶を、ぐっと持ち上げ、残った水を、頭から浴びる。
 冷涼な空気と、冷たい水。
 長い夢から、突然、現実に戻った気がした。
 早春にも、まだまだ早いが、寒いとは思わなかった。
 
 二度三度、水を汲み上げ、思い切り浴びる。
 桶の重さに現実味を感じる。すっかり体力も、落ちているのだ。

「殿下!!。」
 戦英が平伏していた。
「戦英か?。」
 恐る恐る顔を上げると、昨日の恐ろしい靖王では無い。
 戦英のよく知る『靖王殿下』が、そこに微笑んでいた。
 嬉しそうに戦英が笑う。戦英の目も鼻も、真っ赤になっている。
━━私は戦英を泣かせたのだ。
 愚かな主にずっと付き合ってくれたのだな。━━
「支度をする。用意してくれ。」
「はいっ!。」

 その後、湯が沸かされ、靖王は湯浴みをした。

 すっかり痩せてしまって、以前着ていたものは、ひと回りも大きい。
 
 支度を終えると、粥が出された。
「胃が荒れておりましょう。消化の良い物を、、。」
「そうだな。」
 一口、口に入れると、温かさが身体に広がり、力が湧き出すのを感じた。
「美味い。誰が作ったのだ?。」
 戦英は食べる様子を、嬉しそうに見ていた。
「私が、、。」
「ふふ、、。昔から、何でも卒無くこなすな。あまり何でも出来ると、嫁が来なくなるぞ。」
「ご冗談を。」
 配下に感謝しつつ、冗談を言えるほど、靖王の心は平静を取り戻した。
 いつもの靖王に、完全に戻ったと、戦英は嬉しくなる。
(殿下の心を、小帥の朱弓が取り戻してくれた。
 女には分からぬと、心で悪態をついたが、分からぬのは私の方だった。
 私には、こんな荒療治は考えつかない。皇子の中でも、人一倍苦労の多い殿下を、お守りする事だけを第一に考えていた。
 霓凰郡主は、殿下より年下なのに、まるで母のような、、姉のような、、、、。すっかり見抜いておられたのだ。)
作品名:再見 参 作家名:古槍ノ標