サヨナラのウラガワ 8
突き放すように言われてはアーチャーは何も言えない。いや、言いたいことは山ほどある。だが、今は士郎を混乱させるだけだと思い、自制している。なぜ、代わってやるなどと言ったのか、いまだに訊けずにいる。
「しかし、それでは……」
「そうだな、面倒だよな」
「いや、面倒ということではないが、その状態では家に帰ることもできないだろう?」
「え……?」
驚いた顔でこちらを見上げた士郎に、アーチャーが面食らう。
「な、なんだ? おかしなことを言ったか?」
「あの……、家って……?」
「衛宮邸のことだが?」
放心している士郎にかまわず、アーチャーは続けた。
「帰るためには、空路、陸路、海路のいずれかを選択しなければならないが、一番早い空路になると、密閉空間に多数の人が存在する。お前がそれに耐えられるかどうか……。どの方法にしても、多くの人と一時のこととはいえ関わり合うことになる。それを回避するとなると、私が抱えて走るくらいか――」
「……ブッ!」
「む。なんだ」
吹き出した士郎に、アーチャーは片方の眉を上げた。
「抱えて走るって、それこそ、何日かかるんだよ……」
笑いを堪えながらつっこまれて、それもそうだ、とアーチャーは頷く。そうして、もうずいぶんと笑う士郎を見たことがなかったということに改めて気づく。
――――五年ぶり、いや、士郎はあまり笑うことがなかった……。
今も満面の笑みではない。晴れやかでも爽やかでも、こちらが見ていてうれしくなるようなものでもない笑顔。
士郎は心の底から笑った顔を見せてくれたことはなかった。
いつも、どこか自信なさげで、遠慮がちで、アーチャーを伺っているような感じさえ受け取れた。
――――もしかすると、そんな笑い方しかできないのかもしれないが……。
士郎が英霊の座に引き戻される前、アーチャーと恋人同士であったときでも、士郎が楽しそうに笑ったことを記憶していない。
決して士郎に無関心だったわけではないが、今になって思い返せば、恋人だと言い交わしていたというのに、士郎と笑い合うことすらなかったと思う。
――――何をしていたのか、私は……。
少々頭を抱えたくなって、いや、実際こめかみを押さえて項垂れてしまい、士郎に心配顔で大丈夫かと訊かれてしまった。
それはこちらのセリフだと、意味もなく反論し、バツの悪さを感じながら立ち上がる。
「士郎、外に出よう」
「…………」
見上げる士郎は答えに窮している。
「今すぐ外に、というわけではない。とにかく、部屋に籠りきりではだめだ。せめて、凛のアパートの中でもいい、昼中はリビングで過ごし、規則正しい生活をはじめろ。日常を取り戻し、少しずつリハビリを重ねていけばいい」
「……なんか、」
「なんだ」
「お医者さんみたいだな、アーチャー。あ、いや、医者じゃないか、カウンセラーっていうのか、そういうの?」
「何に似ていようがかまわん。とにかく、ベッドから出ろ。だが、焦る必要はない。凛もセイバーもお前のことが気がかりで仕方がないようなのでな。ゆっくりとここで静養し、身体と心を慣らしていけ」
す、と士郎の胸元を指さしていたアーチャーは、いまだ呆けている士郎の頭に手を置く。
「お前に会えたことは…………」
奇跡だった、とは口にできず、アーチャーは士郎の頭を荒く撫でた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
アーチャーに言われた通り、朝起きればベッドから出て、共有スペースのリビングに入る。いわゆるLDKというやつらしく、台所と食卓が続きになっている。そんなに大きくはない部屋だけど、機能的には申し分ないんだと思う。個室が三つで共有するのがLDKと水回りなら、シェアして生活するのには困らないはずだ。
気心の知れた三人なら快適に過ごせるだろうな……。
今ごろこのアパートの間取りに思い至っている自分が少し可笑しかった。余裕がないんだと嫌でも気づく。
精神的なこともあるけれど、アーチャーとまた一緒に生活していることが、なんだか落ち着かない。
あの女の人とはどうなったんだろう?
ずっとロンドンにいるから別れちゃったんだろうか。
それとも遠距離恋愛ってやつか。
アーチャーは律儀そうだから、そういうのでもうまくやっていそうだ。
だとしたら、俺、またアーチャーの足を引っ張っているんじゃないのか?
アーチャーは何も言わないけど、日本に帰りたいんじゃないのかな?
俺がいつまでもアーチャーを煩わせてはダメだよな……。
早く普通に過ごせるようにならないと。アーチャーが早く帰国できるように、頑張らないといけない。
「起きたのか」
キッチンでテキパキと動くアーチャーをぼんやり眺めていたことに、自分でも気づかなかった。
どうしよう……。
こういうときは、何を話せばいいんだろう……。
「士郎?」
怪訝な顔で俺を見るアーチャーに、声が出ない。
「ぁ……っ、」
何を言えばいいんだ?
そうだ、挨拶して、早起きだな、とか、何か手伝うことがあるか、とか……。
でも、俺に手伝えることなんてなさそうだ。朝ご飯はもう配膳するだけみたいだし。
「お、おは、っ、わ!」
辿々しく朝の挨拶を口にすれば、足がもつれてつんのめってしまった。
膝なりなんなりを強打すると思ったのに、アーチャーに受け止められて事なきを得た。
「あ、っと、ごめ、」
「まったく。朝からヒヤヒヤさせるな」
呆れ口調が降ってくる。
こんな調子ではアーチャーが呆れるのも当たり前だと思うのに、どうして胸が苦しいんだろう?
「わ、悪い。あり、がとな、」
体勢を立て直してアーチャーから離れようとすれば、
「っへ?」
がっしりと抱き込まれ……て、る?
「え? あ、ぅ、アー、チャー?」
突然のことに目を白黒させて何度も瞬く。何が起こっているのかを考えれば単純なことなんだ。
だけど、こんなの絶対あり得ない。俺を抱きしめるなんて……。
からかわれてるのか?
こんなことしても驚くだけだぞ?
勘違いとかして、また俺だけ舞い上がってるのを見て楽しむつもりなのか?
いや、そんなことしないか……。いくらなんでも、そんな底意地の悪いことなんて、しない、よ……な?
アーチャー、恋人はどうしたんだ?
あの女の人とつきあってるんじゃないのか?
こんなとこで、俺のお世話なんてしていていいのか?
アーチャーは今、自由にやっているんだよな?
人として人生ってやつを味わい直しているんだよな……?
ああ、わかってるのに……。
この手を、アーチャーの背中に回したい。
抱きしめられて、うれしくて仕方がないんだ。たとえ、恋人じゃなくても、俺のことを考えてくれている。たくさん心配してくれている。
こんなのはダメだと思うのに、アーチャーにかまってもらえることがうれしい。
俺がどうしようもない状態だからなんだろうけど……、そんなのわかっているんだけど……。
離れなきゃ。
これ以上は、ダメだ。
心臓が、もたない気がする。鼓動が激しすぎて、顔から火が出そうで……、吐きそう。
「ぅ……、アーチャー、も、放し、」
ぱっと解放された。
「問題ないな? さっさと食べるぞ」
「ぁ、うん」
作品名:サヨナラのウラガワ 8 作家名:さやけ