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サヨナラのウラガワ 8

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 まるで何事もなかったかのようにアーチャーは配膳に取りかかっている。放り出されたような俺は、ぼんやりしながらアーチャーの温もりが消えていくのを感じていた。
 ああ、もうやめないと、な……。
 アーチャーのことは好きだけど、それ以上を望むことはダメだ。アーチャーは、俺の気持ちに応えられない。前は俺の気持ちを受け取ってくれたけど、もうそれもダメだ。
 やっとアーチャーは一人の人間としてこの世界で過ごせるようになった。アーチャーが俺の身体を鍛えて魔力量を増やしてくれたおかげで、今、現界に足る魔力がアーチャーに流れている。
 これなら離れていたって大丈夫だろう。
 さすがにロンドンと日本ってわけにはいかないだろうから、俺も日本に帰って、アーチャーはまた新都にマンションでも借りてくれれば、万事うまくいく。
 直接供給も必要がないし、一緒に住む必要もない。
 顔を合わす必要も……。
 ああ……、まだ、俺は、未練があるのか……。
 もういい加減吹っ切れたと思っていたのに、もう会えないんだから、忘れてしまおうと思っていたのに……。
 アーチャーのことが、まだ、こんなにも……。
「士郎?」
 呼ばれてはっとする。
「え? あ、わ、悪い、飯、冷めちゃうよな……」
 慌てて椅子に腰を下ろす。
「いただきます」
 手を合わせて、アーチャーの作った朝ご飯をいただく。俺を気遣ってなんだろう、和食ベースで食べやすい。
「身体の方は大丈夫か?」
「ああ、うん。もう平気だ」
「では、少し、外に出てみるか?」
 箸が止まってしまう。外に出れば、知らない人と行き合うことになる。
 大丈夫だろうか?
 また、動けなくなるんじゃないだろうか?
 でも、このままじゃダメだってアーチャーも考えてる。俺もそう思う。
 だったら、少し無理してでも、慣らす方がいいんじゃないか?
 アーチャーだって日本に帰りたいだろうし……。日本に帰って、あの女の人と……。
「士郎、難しいようなら――」
「出てみる」
「大丈夫なのか?」
「いつまでも籠もっていられない。アーチャーだってそう思うから部屋から出ろって言ったんだろ?」
「それは、そうだが……」
「俺もこのままじゃダメだと思ってる。普通に過ごせるようにしなきゃダメだとわかってる。だから、迷惑かけるかもしれないけど、付き添いを、頼みたい」
 頭を下げて頼んだ。一人ではさすがに無理だと思うから、アーチャーに同行してもらって、他人に慣れる訓練をする。
 地道にコツコツ積み重ねれば、こんな、PTSDなんてのはどうにかなると思う。
「……わかった。だが、無茶はするな。いいな?」
 こくり、と頷けば、アーチャーも顎を引いて頷いた。

 次の日の早朝、昨夜のうちに決めていた、近くの公園を散歩するというコースで、俺のリハビリははじまった。
 夜明けと大差ないくらいの早朝なら人の出が少ないし、俺の負担は少ないだろうというアーチャーの見立てだ。
 薄暗い中、アーチャーと公園の遊歩道を歩く。本当に人と会うこともすれ違うこともない。この分なら大丈夫だろうと思っていたけど、帰途につくころには明るくなっていて、段々と人の姿が見られるようになった。
 犬の散歩やジョギング、ウォーキング、スーツに身を包んだ通勤の人。目につく度にビクついて、身体が凍りつきそうなのを必死になって動かしていた。
 毎日繰り返せば他人に慣れるし、PTSDも治ると簡単に考えていた俺は、バカだったみたいだ。俺の症状は意外と深刻なようだと、外に出るようになって一週間が経過して気付いた。
 全く進歩がないし、なんなら酷くなっている気もしてくる。それでも俺は、慣れてきたふうを装った。
 励ましてくれる遠坂にもセイバーにも、これ以上、失望されたくない。心配されてばかりなのも、もう嫌だ。
 だから、なんでもない顔をして、硬直しそうな身体を必死に動かす。
 それが、俺が二人に返せるものだから……、それに、アーチャーには世話になりっぱなしだから、早く独り立ちがしたいんだ。ずっとアーチャーを縛りつけているわけにはいかない。アーチャーだってやりたいことがあるだろうから。
 気分的には這々の体でいる俺に、
「そろそろ買い出しを手伝ってもらおうか」
 アーチャーは爆弾のような言葉を発した。
 寝耳に水の言葉にぞっとした。
「そ、そうだな」
 答えながら、嫌な汗が背中を伝うのを感じる。
 買い出しって市場だよな。
 今より人が多い所にいくんだよな、当然……。
 気が遠くなりながらも、アーチャーに答えていた。そろそろいいかもな、なんて……。



 その日は天気も良く、出かけるとしたらいい日和だった。アーチャーと二人で出かけるのは、散歩以外では久方ぶりになる。うれしい反面、どうしようもない恐怖に足が竦む。
 身支度を整えたアーチャーが部屋の鍵を手に取った。
 もう、出かけなきゃ……ならないのか……。
 こぼれそうになるため息を飲み込んで、アーチャーに続く。
「無理だと思ったら、すぐに言え。買い物をしたあとにお前まで担ぐ羽目になど陥りたくはないからな」
 冗談めかして言うアーチャーの言葉が現実にならないように努力するだけだ。
「士郎?」
 俺が返事をしないからか、アーチャーは俺の顔を伺うように覗き込む。
「迷惑かけないように、頑張るよ」
 軽口を叩き、顔には可愛げのない笑みを浮かべ、アーチャーを見上げると、ひょい、と眉を上げたアーチャーは毒気を抜かれたような微笑を見せる。
「頑張らなくてもいい。お前のペースで慣らしていけ」
 優しい言葉は、辛いだけだ。何もままならない自分を理解しろ、と言われているみたいだ。
 とん、と背中を押され、その手が温かいことを嫌でも知らしめられる。つい振り仰いだ横顔が、ずいぶんと近くにあることに気づく。
 ああ、そうか。背が伸びたんだ。
 アーチャーとの身長差って二十センチはあったのに、今はその半分くらいしか差がない。近くなった視線同士がかち合って、俺はどうすればいいかわからない。
「行くぞ」
 エスコートするように、アーチャーは俺を促す。うれしいのに、笑えない。こんなに近くにいて、気遣ってもらって、すごくうれしい。だけど、この気持ちを持ち続けることはやめなければならないから……。
 アーチャーとうまくやっていくためには、俺の気持ちを捨て去ることが賢明だ。アーチャーが、再び自由を手に入れるためには、俺に縛られていてはダメだから……。
 鬱々としながら、アパートを出た。

 極力周りを見ないようにして、できるだけ視界を狭くして、朝の散歩のときもこうやってしのいでいる。
 早い時間なら買い物客はそんなに多くはないはずだと思っていたのに、耳に届くのは人々の声だ。
 数えきれない気配が蠢いているのを感じる。まだ遠いからなんとかなるけれど、このまま、あの集団の中に入っていくのかと考えるだけで寒気がする。
 早朝の公園とは全然違う。どうにかなるだろうなんて、微塵も思えない。
「っ……」
 行きたくない。
 もう、帰りたい。
 足を止めたい。
「士郎、無理そうなら、」
「う、うん、大丈夫。ちょっと、緊張、してる、だけだ」
 なんで無理だって言えないんだ、俺……!
作品名:サヨナラのウラガワ 8 作家名:さやけ