その先へ・・・6
イワンは店の一室を女将から特別に借りた。ここの厨房で働いているイワンは女将にたいそう気に入られているようで、空いている部屋をウオッカを付けて貸してくれた。義理の兄だというアレクセイに値踏みするような視線を向けたが、ごゆっくりと優し気な声をかけて忙しく店へと戻って行った。
部屋に入るなり、イワンはアレクセイに頭を下げてもう一つの包みを懐から取り出した。
「これは……?」
「開けてください」
ガサガサと包みを開け、現れた物を見て目を疑った。
出てきたのは写真2枚。そして赤いリボンで束ねられた複数枚の手紙。
1枚目の写真は見覚えのあるものだった。
懐かしい兄とアルラウネが身を寄せ合い幸せそうに微笑んでいる。
そして2枚目は、1枚目の2人にまだ少年のアレクセイが加わった3人での写真だった。これは初めて目にしたものだ。
「おまえ……これをどうしてっ!?」
「……護送列車を襲う計画が失敗し、ミハイル兄さんが失踪してしまってすぐ、兄さんを尋ねてきた人から預かりました」
「そいつは誰だ?」
「わかりません。支部では見たことは無い人でしたが、ミハイル兄さんの知り合いの様でした。ぼくの事も、妹の事も知っていました。兄さんの不在を告げるとぼくに、君はアレクセイ・ミハイロフが生きている事を知っているな?と言いました。あなたの生存は同志しか知りえない事でしたから、ぼくは同志なんだろうと思い、知っていると答えました」
まっすぐアレクセイを見つめているイワンの瞳に澱みはは無い。この純朴な青年は嘘を言っているわけでは無い事は明らかだ。
アレクセイはイワンの言葉を待った。
「その人はこの包みを出して必ずあなたに渡せ、と。中身を尋ねると、自分がこれを持っているのは相応しく無いから、の一点張りで。結局名前も名乗らずその人は去って行きました」
「どんなヤツだった?」
「背が高くて、少し面長で髪を撫でつけていました。穏やかな紳士風でしたが、ご存じでしょうか?」
無言のまま首を振り、アレクセイは写真に目を落とした。
ドミィートリィとアルラウネが婚約し、その記念に写真師がミハイロフ邸に来て撮った写真だった。二人で撮った後、何故かドミィートリィは3人で撮ろうと言い出し、アルラウネもそれに賛同し嫌がるアレクセイを無理やり引き込み真ん中に座らせたのだ。
写真の中の少年は、穏やかに微笑む大人な2人とは違い、仏頂面でこちらを睨んいる。この時の気恥ずかしさや、初恋に破れたばかりの痛みがよみがえって、少し甘酸っぱい気持ちになった。
兄の逮捕、処刑、ロシアからの出国と目まぐるしい日々を過ごし写真の事などすっかり忘れていたアレクセイだったのだが、亡命先のドイツ、レーゲンスブルグの音楽学校の寮に入る時にアルラウネから2人の写真を手渡された。
異国で偽りの自分のまま学生生活を送る事はまだ年若いアレクセイにはかなりの負担だったが、寮の部屋で本来の自分に戻り兄の写真と対話する時だけが唯一安らぎを得られる時間だった。
当然この写真は誰にも見せた事は無かったのだが、唯一見た人物がユリウスだった。
自分の秘密を知る学校での唯一の人物。この一件からユリウスという存在がアレクセイの心の中でどんどん大きくなっていったのかもしれない。
その後、亡命先からロシアに帰国する際に写真は持ち帰ったのだが、モスクワ蜂起の敗北の後の逮捕から流刑、街の混乱により喪失してしまっていた。
3人の写真など今の今までその存在すら知らなった。
それをアルラウネが持ってきたのならまだしも、その男とは一体誰なのだろうか……?
アレクセイは赤いリボンで束ねられている手紙を手に取った。
10通以上はある。ビロードのしなやかなリボンで柔らかく結ばれていたそれを手に取り、1通をカサカサと広げると先程の写真を見た時よりも大きな衝撃を受けた。
それは、紛れもない兄ドミィートリィのものだった。
『我が生涯の恋人アルラウネ』
兄の流麗な文字が刻まれていた。兄からアルラウネへの恋文だった。
「兄貴……」
そっと指先で文字をなぞる。自分が書く荒っぽい字とは異なり、ドミィートリィーは美しく整った文字を書いた。
母親が違うとはいえ、同じ兄弟でこうも違うとは、とよく祖母に小言を言われたものだった。
もちろんそれは筆記だけではなかったが……。
アレクセイは遠い昔を懐かしく思い返した。
「本当はすぐにでもあなたに渡した方が良いのは分かっていました。ですが、ぼくは当時まだあなたの事を充分に信用出来ていませんでした」
「……」
「まだ党員になって日も浅く、あなたと一緒の支部に在籍する事になってもぼくの様な下っ端には、あなたの事を知ることなど出来ませんでした。特に兄さんを亡くしたばかりで、まだまだかけ出しのぼくは真実が見えていなかったのです」
「正直に話してくれるな、イワン。おまえは一体……」
「……フロイライン アルラウネの連絡文を抜き取ったのは同志ルゥイ・ガモフにあなたの身辺、特に女性関係について探れ。と指示されていたからです。彼女からの連絡文にあなたのオンナの事が記されているはずだ、と」
「!!……おまえ、ルウィとどういう関係なんだ?」
「関係という程のものはありません。あえて言うなら、ぼくはミハイル兄さんの代わりです。兄さんがユスーポフ侯爵と同志アレクセイの関係を調べ始めた時、近寄ってきたのが同志ルウィだったそうです。侯爵とアレクセイ・ミハイロフの関係を調べているなら手伝う……と。兄さんはあなたとルウィの関係を知っていたので断ったそうですが、おれなら役に立てるから、と強引に迫ってきたと言っていました」
「ミハイルは、たしかアカトゥイから戻ってしばらくの間モスクワに身を隠していたな。その時か?」
アレクセイを奪還する為に憲兵隊を辞めていたミハイルは、しばらくはペテルスブルグを離れた方がいいと中央委員会からの指示があり、モスクワへ行っていた時期があった。
「はい。でもどんなに調べても侯爵との関係が得られず頓挫したそうです。兄さんはペテルスブルグに戻ってきた時に、今度あなたに会ったら事の次第をじっくりと聞き出してやる、と面白そうに言っていたのですが、それがかなう事もなくあんな事に……。そしてその一件があってすぐ、ルゥィが突然現れました。
「今度はおまえに手伝えと強引に迫ってきたのか。……おおかたお前の妹の事でも持ち出してきたんだろう?」
「あ、妹の事を知って……」
「あのなぁ、おれにもそれなりに情報網ってもんがあるんだぜ。……ってエラそうな言い方だな。すまん。髭のオヤジから聞いたのさ」
少しびっくりしたような顔をしたイワンだったが、力が抜けたのかほうっっと大きなため息をついた。
「具合、本当はあまり良く無いんだろ?」
イワンはアレクセイを凝視し、くちびるを噛んで一つうなずいた。
「……かっ、金を融通してやると……。いい医者にかかるには、お金が必要です。党に入ったばかりのぼくにはをどうしても工面出来ません。ここでの給金を足しても、2人で生活して行くのがやっとです。妹はもともと体が弱い方ではあったので、親戚での暮らしがよほどきつかったのだと思います。……苦労させた妹には元気になって夢を叶えて欲しかったのです」