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サヨナラのウラガワ 9

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「嫌だな……」
 忘れたくないな……。
 大切な想いなんだ。
 だから、忘れたりしたくない……。
 たとえ報われない想いだとしても、ただ持ち続けていたいって、思う。
 でも、それも許されないから……、消されるんだ。
「ぅ……っ……」
 どうしてだろう、涙が目尻を伝う。目頭に溜まった方は、そのうちに鼻筋を伝ってシーツに落ちた。
「なんで……」
 泣いているんだろう。
 どうして、悲しいんだろう。
 胸が痛むのは、なぜだろう。
 忘れなければならないなんて。
 想う相手に、忘れてほしいと思われているなんて。
 こんな苦しいばかりなら、いっそのこと……、消してしまった方が楽なのかもしれない。
 そうするのが、誰にとっても正解なんだ。
 遠坂もセイバーもアーチャーも。
 俺の記憶は、要らないんだ……。



◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆

「士郎、入るぞ」
 一応断ってからドアを開けた。セイバーは、あとで士郎も夕食を食べに出てくると言っていたが、全くその様子がなく、もう深夜になる。凛もセイバーも明日は仕事で朝が早いため、彼女たちには先に休んでもらった。
 しかし、セイバーに睡眠は必要ないと思うのだが、今までそういうふうに過ごしてきたからなのか、彼女は人と同じように食事も睡眠もとっている。
 ああ、いや、セイバーのことはどうでもいい。逃げずに士郎と話さなければならないと思うからか、関係のないことばかりが頭を占めてしまう。どうにか気持ちを切り替えて部屋に足を踏み入れた。
 こんな時間ならば、あっさりした夜食にした方がいいだろうと思い、おにぎりを作ってきたのだが、
「寝ている……」
 どうりで音沙汰がないわけだ。
 セイバーに宥められてから不貞寝でもしたのだろう。
「まったく。子供か……」
 呆れつつ窓際の机に方向転換しておにぎりを置き、上掛けの上で横になっている士郎を、きちんと寝かせるために再びベッドに歩み寄る。
「おい、少し起き……」
 頬を軽く叩いて起こそうとした手が止まる。濡れた睫毛に気づいてしまった。
 まさかとは思うが、泣いていた、というのか?
「…………」
 半信半疑で目尻に触れれば、僅かな水分が感じられる。
「……怒っていたのでは、なかったのか?」
 わからない。
 なぜ、士郎が泣いたりするのか。
 我々が記憶を勝手に消そうとしていると知って怒って部屋に籠り、そのあとにいったい何があったというのか。
 セイバーは何も言っていなかった。というより、彼女はうまく士郎に話せたようで、記憶を消すことを承諾している、と言っていた。彼女の性格であれば、その時点で士郎が泣いたりしていれば、放置することなく大騒ぎするだろう。
 であれば、そのあと、ということなのか?
「泣くのか、独りで……」
 お前は、こんなふうに泣くのか。
 誰にも気づかれないように、誰にもわからないように……。
「……たわけ」
 そっと士郎を抱え、上掛けを剥いで寝かせる。
 起こしてしまうかもしれないと気を遣ったが、杞憂に終わった。ほっとしたのか残念なのか、曖昧な気分で上掛けを士郎の肩までかけ、机の上のおにぎりを見遣り、次いでドアを振り返る。
 片づけは終えた。戸締りもした。あとは、私も休むだけだ。休むといっても睡眠をとるわけではない。士郎がこの部屋を使っている以上、落ち着かないだろうからと、気を回してリビングで夜を明かしている。
 話したいことは山ほどあるが、今は士郎が普通の状態ではないので、ずっと我慢している。
 べつに守護者であったときのことをすべて吐かせようなどと思ってはいない。言いたくないことや思い出したくないことまで根掘り葉掘り訊くつもりは毛頭ない。が、士郎の状態を改善するためには、そうなった経緯を知っておく必要があると思うのだ。
 料理のことでもいい、投影した剣のことでもいい、いや、そんな気張らなくても、くだらない無駄話でもいい。何くれと話すことができるのなら、と本当に思っているのだ私は。
 だが、そんな簡単なことが一番難しい。それに、士郎が何を考えているのかがわからない。
 ああ、そうだった……。
 私は五年前も士郎のことがわからなかった。だから、新都のマンションに棄てられたのだ。
「士郎……」
 私がどんな思いでお前を探していたか、知らないだろう。ただ、会いたいと思うばかりで、どうにもならない現実に歯痒さを噛みしめ、紛争地を渡り歩いていたのだぞ。
 衛宮邸に戻ることすら忘れ、日に日に焦りを募らせて探し続ける時間は、ひどく長かった。
 お前と再びまみえることのできた今が奇跡だと思う私を、お前はどう思うのだろう……。
 気味が悪いと顔を歪めるだろうか。
 それとも、馬鹿じゃないのかと蔑むだろうか。
「……お前は、今も、」
 私を好いてくれているのか?
「私は、お前を……」
 同じように好いている、のだろうか……?
 確かにお前と過ごす時間は愛おしいものだったと気づいた。であれば、私はお前自身も愛おしいということなのだろうか。
「…………」
 この、ままならない感情に、いったいなんという名を付ければいいのだろう。
 士郎を第一に考え、優先し、こんな不安定な士郎を、何くれと世話したい。
 これは、愛おしいという感情に連なるものなのだろうか?
 いくら考えたところで答えは出てこない。
 そっと頬に触れれば、顔を背けられてしまった。
 何やら、胸のあたりが重くなる。
 残念、とでも言えばいいのか、がっかりした、というのが正解か、ショックを受ける、という感じまではいかないものだが……、なんだ、このモヤモヤする感じは。
 戸惑いをどうすることもできないまま、私は自分自身でも驚く行動に出てしまっていた。
 士郎の眠るベッドに私も潜り込んでいる。
 何をしているのか、と自分自身につっこみ、それでも全身で感じられる温もりに、既にベッドを出る気が失せている。
 セミダブルのベッドは衛宮邸の洋室にあったシングルベッドに比べれば、二人で寝ても窮屈ではない。が、かといって大きすぎないのでくっついていられるベストサイズだ。
 今ごろ凛の意見を聞き入れておいて良かったと思った。
 ベッドを購入するときに、シングルでは狭いのではないか、と言った凛は、こんな状況を見越していたのだろうかと、勘繰りたくなる。
「まあ、思いつきなのだろうがな……」
 衛宮士郎の成れの果てを見ていた彼女は、士郎が私くらいには成長すると考えていたのだろう。その通りになったといえばいいのか、少し違うと言えばいいのか……。
 どうでもいいことを考えながら、寝息を立てる士郎を引き寄せ、赤銅色の柔らかい髪に顔を埋め、自分が何をしているのか、という疑問を隅に追いやり、瞼を下ろした。
 士郎が目覚める前に離れなければ、と思いながら……。



 ぼんやりとした士郎は、薄ら瞼を開いたままで、いまだ眠りの最中のようだ。
 肘枕のまま、どうしたものか、と思案する。結局、私は離れることができなかった。
 何を言い訳にするか、と考えてみたものの、何も浮かんではこない。とりあえず、声をかけてみることにした。
「そろそろ起きるか?」
 反応がない。
「士郎?」
作品名:サヨナラのウラガワ 9 作家名:さやけ