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サヨナラのウラガワ 9

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 片手で頬に触れれば、ゆっくりと瞬き、次第に焦点が私に合ってくる。何度か瞬き、目を擦って、さらに瞬きを繰り返し、目を剥いた士郎は、あんぐり、と口を開けたまま言葉を失っている。
「おはよう、士郎。腹が減っているのではないか?」
「…………っ、な、なんっ……、え? あれ? あの、俺……、え? ええっ?」
 自分の置かれた状況が把握しきれない様子で、士郎は目を白黒させている。
「心配するな。何もしていない。私が勝手に潜り込んだだけだ」
 淡々と説明してやれば、士郎は目を据わらせている。
「……アンタ、犬猫じゃないんだから」
 難しい顔をして呟く士郎には答えず身体を起こした。
「うなされていたぞ」
「え……?」
 士郎は眠ってはいたが、苦しげに唸っていた。時折、啜り泣きに近い呻きも混じっていた。
 やはり、守護者の記憶など、持っていてはまずい。
「本人を抜きにして、凛と勝手な話をしていたと自覚している。だが、お前には必要だと、そういう結論に至ってしまったのだ。したがって、私は凛の言った通り聖杯戦争を含めた記憶を消した方がいいと思っている。だが、それは、強要ではなくお前の意思で決めてくれ。お前がどんな結論に至ろうとも、私は従う」
 士郎はもぞもぞと起き上がり、こちらを向くのではなく、枕元に向かって胡座をかいた。
「……アンタが、いろいろ考えてくれているってことは、わかってる。悪かった、ちゃんと話も聞かないで、一方的に突っぱねて……。その……、びっくり、したんだ。記憶を消すなんて考えもしなかったから、だから、えっと……、そうした方がいいって言うんなら、やった方がいいのかなって……、思う」
 辿々しくだが、士郎は記憶を消すことを受け入れようとしている。昨夜はあんなに激昂したというのに、一晩経てば一転してやる気になっている。
 本当のところは、どうなのだろうか?
 士郎は本当に受け入れたいと思っているのか?
「不便、だしさ……、人がいるところに行けないっていうのは……」
 当たり前のことを士郎は言っているのだが、それが本心なのかがわからない。
「士郎、無理をしてはいないか?」
「なんだって、俺が無理する必要があるんだよ? 記憶さえなければ普通に買い物にも行けるし、飛行機にも乗れる。日本に……、家に帰ることだってできるんだ。そうだろ?」
「……おそらくは」
「じゃあ、遠坂に頼んでおいてくれ」
「あ、ああ……」
 こんなにすんなり承諾するとは思っていなかった。時間をかけ、ゆっくり話し合い、決行は士郎が十分に納得してからだ、と考えていた。
 それが……。
 こんなにあっさり決めてしまっていいのか?
 それほどに士郎も苦しいということなのか?
 疑念は尽きない。が、士郎が承諾しているのであれば、なるべく早くと、凛に頼んで術を施してもらう方がいいだろう。
 事はすんなりいきそうだというのに、私は何を不満に思うのか。
 士郎が私を忘れてしまう……。
 自分から言い出したというのに、今さら何を悔やむことがあるのか。
 だが、士郎の記憶から聖杯戦争のことも、セイバーはもちろん私のことも消えてしまうと思うと、やるせないと思う。
「凛に話しておく」
「ああ、頼んだ」
 淡々と話は終わった。それ以上、士郎は口を開かず、私も口にするような話が思い浮かばない。
「そろそろ……、朝食の準備をしなければな」
 何か理由をつけなければ立ち上がれない。そんな己に嫌気がさすが、いつまでも士郎の傍にいれば、何かよからぬことをしてしまいそうだ。
 未練タラタラでベッドから出て、机に置いてあったおにぎりの皿を手にドアへ向かう。
「あ、あのっ、」
 士郎が急に大きな声を出すものだから、反射的に振り向いてしまう。さっさとこの部屋を出なければならないと思うというのに、ベッドを降りようとしている士郎と目が合う。
「っ……」
 まるで縋るような視線だと思った。
 おそらく士郎にそんな気はないと思うのだが、私の主観が強すぎるのか、どうにも士郎が私を引き留めようとしていると受け取ってしまう。
「と、遠坂の都合がつくまで……、そ、その……、えっと……」
「なんだ。はっきり言え」
 もしや、恋人として過ごしたいなどと言い出すのではないかという淡い期待に、鼓動が少し慌ただしい。
「俺も、台所に立って、いいか?」
「は?」
 いったいこいつの頭の中はどうなっているのか。台所に立ちたい、と私に許可を得ようとするなど……。
 やりたければやればいい。
 だというのに、こいつは、何もかも私の許可が必要だと思っているのか?
「あの、買い出しは行けないし、俺じゃアンタの足下にも及ばないし、足引っ張るのがオチだとわかってるけど、施術するまでの間でいいから、頼みたいんだ」
 私がすぐに答えないからか、士郎は必死になって理由を述べている。
 そんな申し出などしなくていい。ただ、一緒にご飯が作りたい、そう言ってくれればいい。
 だが、士郎は常に私のことを念頭に置き、私に伺いを立てなければならないとでも思っているようだ。
「手伝いたいと申し出られて、断る理由などないが?」
「いい、のか?」
 おずおずと確認を取る士郎に頷けば、少し呆けていた士郎は、やがて、安心したように微笑を浮かべた。
 皿を持った手に力が籠もる。力みすぎて震え出す腕をもう一方の手でさりげなく押さえ、どうにか堪える。
 鼓動が速い。
 耳元でドクドクと、脈がうるさい。
 見慣れた顔だというのに、私がこの五年間請け負っていた身体だというのに、鏡で見るのとは全く違っている。
 士郎だと思うだけで、なぜ私の内面は、これほどにままならないのか。
 高校生のときに比べると顔つきは大人になったと思う。大きかった目(まなこ)は、アーモンド型になり、少し鋭くなっている。丸みの強かった輪郭も細面になり、童顔とはいえ大人の男になりつつある。いまだ発展途上の気はあるが、精悍と言ってもおかしくはない顔つきになった。
 だというのに……。
 何故、私はそんな大人の男に、欲情めいたものを感じているのか。
 今すぐベッドに戻って組み敷きたい、など……。
 いや、だめだ、だめだ。
 何をとち狂っているのだ、私は。
「手伝うのなら、さっさと起きて着替えろ。ああ、いや……、まずはシャワーでも浴びろ。昨夜はそのまま眠ってしまっただろう」
「あ、そうだった……」
 士郎はベッドから立ち上がり、クローゼットから着替えを取り出している。
「先にはじめているぞ」
「あ、う、うん、わかった」
 先にドアを出て、台所に入る。ダイニングテーブルに持っていた皿を置き、シンクの前に立って、思わず大きなため息をついてしまった。
 うれしくない、と言えば、嘘になる。
 士郎とともに台所に立つなど五年ぶりだ。どうしようともニヤけてしまう顔を、どうやって誤魔化せばいいのだろうか。
「士郎は……まだ……」
 訊けない疑問がまた湧き上がる。
 恋人として接していいのだろうか。
 士郎は私を恋人に、と今も望んでいるのだろうか。
 ひと言でいいというのに、いまだに訊けずにいる。
「だというのに……」
作品名:サヨナラのウラガワ 9 作家名:さやけ