サヨナラのウラガワ 9
凛の都合がつき次第、記憶を消す施術を行うことになる。しかし、私はこの時間を失いたくない、などと思ってしまっている。
そういうわけには、いかないのだ……。
士郎のためには、やはり記憶を消去するしかない。
早く、普通に生活できるようにしてやりたいと思う。
たとえエゴだと言われても、外に出られず、籠りきりの生活などさせたくはない。
だが、その代償として、士郎は記憶を棄てることになる。聖杯戦争のことを、それから、私とのことも、一切合切消し去ってしまうのだ。
ひどい話だ。士郎からうつされた熱を、私には押し出す場所がない。被害妄想も甚だしいことはわかっているが、お前がはじめたことだろう、と言い募りたい。それでも、のめり込んだのは、やはり私の方だったのだ。
士郎にとっては初めから、そんなに深刻な感情ではなかったのかもしれない。それこそ憧れの延長線のような……。
だからなのだろうか?
士郎は常に受け身だ。確かにだだ漏れる想いは隠しきれていなかったが、行動に移したのは、いつも私だった。
私の空回りだったのか。
必死になって探し求めて、馬鹿みたいだな……オレ。
だが、それでも、士郎に向かう気持ちは、あとからあとから湧いて出る。
「抑え込むのに、一苦労だ……」
自嘲をこぼして、朝食の準備にようやく取りかかった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
記憶を消すことにした。
これ以上は迷惑をかけられないから。
アーチャーはもちろん、遠坂もセイバーも賛成だって言うから。
遠坂の準備が整い次第、施術するって言っていた。それまでは、アーチャーと台所に立ってもいいって許可を取ったし、このアパートの中だけの話だけど、自由にしていられる。
殺さなくていいんだ。
殺されなくていいんだ……。
他人の視線に呼吸を乱すこともないし、ここには信頼する人しかいないから安心できる。
遠坂とセイバーが帰ってくるまではアーチャーと二人だけだ。
うれしいんだけど、緊張する……。
遠坂の仕事の都合と準備次第では、明日になるか、ひと月後になるかはわからないけど、聖杯戦争からの記憶を消す算段になっている。
「全部、か……」
セイバーとの記憶も、遠坂と共闘した記憶も、アーチャーと契約して、恋人になったことも……。
嫌だとは言えない。
本当は失いたくはないけれど、アーチャーとの記憶は、守護者の記憶にも連動していくから、曖昧さを残しては施術自体の効果が発揮されず、ダメなんだそうだ。
ため息をこぼしそうになって、慌てて飲み込む。
「つめろ」
「へ?」
見上げたところにマグカップが、ぬ、と現れる。
「ブラックでいいだろう?」
「あ、うん、さんきゅ」
アーチャーはコーヒーを淹れてくれていたのか。そういえば、室内はいい香りが充満している。
「豆から?」
「ペーパードリップだがな」
「紅茶もだけど、ほんっと、拘るよな、アンタ」
「お前もだろう」
「まあ、うん……」
マグカップを受け取りながら、ソファを少し移動する。二人掛けのソファの対面に、壁にかかった大型の薄型テレビが取り付けてあるからか、アーチャーは俺の隣に腰を下ろした。
「…………ぁち」
熱いコーヒーを一口啜って、つい舌が受けた刺激をこぼしてしまう。
「気をつけろ」
「ん」
昼下がりは、いつもこんな感じだ。朝起きて朝食を作って食べて、俺が掃除をしている間にアーチャーは買い物に行って、昼ご飯を作って食べて片づけをして、洗濯物を片したら、ぽっかりと時間が空く。
夕食の準備までは何もすることがないから、ぼんやりと食卓の前で突っ立っていたら、アーチャーがコーヒーを淹れてくれた。
それから毎日、同じような流れで、昼下がりになるとアーチャーとコーヒーを飲む。
最初はダイニングのテーブルだった。そのうちにアーチャーがテレビをつけて、俺がソファに移動すれば、アーチャーもソファに座るようになった。
何も話すことはない。ただ、テレビの画面を見ているだけなのに、俺にとってはかけがえのない時間に思えた。
アーチャーには手の空いた、どうでもいい、退屈な時間だろうけど、俺には宝物みたいに大切な時間になった。
香りのわりに、あまりコクのないコーヒーを口にして、
「イマイチだな」
アーチャーがこぼしたのと同じ感想を抱いて、小さな喜びを感じている。
「豆が悪いのか、淹れ方が悪いのか……」
アーチャーはコーヒーの改善点を思案しはじめ、俺はといえば、飲み干したマグカップをローテーブルに置くこともなく、こくりこくりと船を漕いでいる。
意識が沈んでいって、どうしようとも抗えない眠気に力が抜けていく。
「まったく……」
優しい感じの呆れ声が聞こえた。手に持っていたマグカップは奪われた気がする。ことん、と硬いもの同士が当たる音がした。
「寝ておけ」
肩を引かれ、完全に脱力しているのに、ソファから落ちるどころか、楽な姿勢になっている。
ああ、アーチャーが……。
もたれさせてくれている。
もう瞼も上がらない。よかった。コーヒーだけは飲み切っていたからこぼすことはなかったみたいだ。
あったかいなぁ、アーチャーは……。
俺、アーチャーに訊きたいことがあるんだ。
俺たちはもう、恋人じゃ、ないのか?
直接供給しなくても魔力が流れるようになって、ホッとしているのか?
なあ、やっぱりさ、忘れてほしい?
俺は……、忘れたくないんだ……。
そんなことを言ったら、困るよな?
だから、言わないでおくよ。アーチャーが望むように俺は過ごすよ。
だから、今だけ。
今、この時間だけ。
終わってほしくないなって思うことを、許してほしいんだ……。
Back Side 24
「本当にいいのね?」
凛は念を押すように訊いた。
「ああ、頼むよ」
士郎は凛を見ずに天井を見ながら答える。
「じゃあ、はじめるわよ?」
こくり、と頷く士郎に、凛も頷く。
ベッドに仰向けになっている士郎の額に、凛の手がかざされた。
「頭痛は我慢して。泣いても叫んでもいいから、できれば、暴れないで」
「わかった。っていうか、これじゃ、暴れられないけど?」
士郎はすでにベッドに縛りつけられている。手足首には革製の拘束具が装着されており、その拘束具はベッドの足に固定されている。ほぼ大の字で仰向けになっている士郎は、何やら実験台のようだ、と苦笑いを浮かべた。
「そうでしょうけど、一応ね。暴れるとケガをするのは衛宮くんだもの」
「そっか。うん、そうだな」
この状態で暴れれば、手足首には確実に拘束具の痕が残るだろうし、凛に危害が及ぼうものなら、ドアの向こうに控えたセイバーとアーチャーがそれを防ぐだろう。
――――暴れないようにしないと……。
自身に言い聞かせながら士郎は瞼を下ろす。
「やるわよ?」
凛の最終確認に、士郎は、こくり、と頷いた。
作品名:サヨナラのウラガワ 9 作家名:さやけ