サヨナラのウラガワ 9
二日前に仕事を終えて戻ってきた凛に、一日休みをくれと言われ、士郎はほっとしてしまった。この十日ほどは、凛がいつ帰ってくるのかと、まるで死刑囚のような気分を味わっていたのは隠しようのない事実である。気が気ではない、という気持ちを、どうにか表には出さないよう、努力だけはしていた。
そんな不安を掻き立てられるような日々の中でも、士郎はアーチャーとの時間をできうる限り大切に過ごした。
――――もう、思い残すことはない。
自分自身に言い聞かせるように、心の中で念じる。ここまできても、まだ、記憶を消すことに心の底から納得できたわけではない。が、施術をするにあたって凛から注意事項を受けるとともに、一つの提案がなされ、士郎は納得する方に舵を切った。
――――これ以上、迷惑はかけられないから……。
下ろした瞼にはアーチャーの面影が浮かぶ。そんなに多くはない時間だったが、契約したての頃や、恋人になった頃のこと、マンションにアーチャーを押し込めてしまったことなど、今となっては懐かしさすら感じる出来事がいくつも思い出される。
――――全部忘れれば、この胸の苦しさも消える。
士郎にとって、それだけが唯一望むもの。アーチャーを想う、この心の苦しさから解放されるという、それだけが、記憶を消すことのメリットだと思っている。
つい先ほど、ベッドに己を縛りつけたアーチャーの姿も思い出される。特段、表情に変化はなく、いつも通りのポーカーフェイスで、淡々と士郎の手首と足首に革のベルトを巻き付け、最後にそっと頭を撫でてドアの向こうに消えていった。
話すことなどなく、交わした言葉は、ベルトがきつくないかという確認だけだった。
不覚にも鼻の奥が、つきん、と痛む。
――――こんなのも、忘れられる……。
アーチャーへの想いが消えることは、やはり嫌だと思う。だが、アーチャーを想う苦しさは、報われないことがわかっているだけにできることなら忌避したい。
――――俺、我が儘だなぁ……。
そんなことを思って、士郎は自身を嗤いたくなった。
「衛宮くん、力まないで自然に呼吸を。えっと、そうね……、深呼吸の方がいいわ」
凛のアドバイスに従って、士郎は素直に深呼吸を繰り返す。
「じゃあ、はじめるわね」
「よろしく頼むよ」
凛の声に答え、士郎は暗澹たる気持ちを面に出さずに頷いた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
遠坂の手から熱のようなものが発せられている。
瞼を閉じていてもわかる。見えてはいないのに、額のあたりに遠坂の手がかざされているのが……。
これで、記憶を失う。
アーチャーがこうした方がいいって、言った……。
これから生きていくために、忘れることが最善だって。
俺が日本に帰るために。アーチャーも日本に帰るために。
俺は家に戻って、アーチャーはあの女(ヒト)と……?
ああ、そうだよな。
たとえ俺が無理をして日本に帰ったとしても、アーチャーがうちに居ることはないんだ。もう、直接供給なんて必要ないから。
アーチャーは、こんな状況に陥るのを見越して、俺の魔術を鍛えたんだろうか?
現界に申し分ない魔力を流せるように成長させて、アーチャーは本当の自由を手に入れるために……?
ああ、なんだか、すごく卑屈だ。
そんなわけがない。アーチャーは俺を探していたって言った。五年もかけて俺の魔術と身体を鍛えて、いつでも俺と交代できるようにって……。
でも、そうか……。
高校生の俺と入れ替わったから、あの女(ヒト)と会えていないから……、必死になるのは当たり前なんだな。
だとしたら、アーチャーは用意周到に俺を探していたってことか。
少しでも期待しようとしてたなんて、俺、恥ずかしい奴だな……。
アーチャーの気持ちが俺には向かないっていうのを、嫌というほど知っているのに。
ほんと、バカだ……。
目を閉じていると、アーチャーと過ごした日々が溢れていく。やがて、溢れたその光景には、虫食いのような穴が開き、徐々に暗くなって薄れていく。
「ぅ、ぐっ」
頭が痛い。鈍痛というよりも、何かで締めつけられているような感じだ。
痛みとともに、瞑った瞼の裏の光景も薄れていく。
ああ、こんなに、あっけなく……。
消えていく。
消えていく。
消えて……いく……。
失いたくない。忘れたくない。俺が初めて抱いた想い。
あったかくて、苦しくて、みっともないし、恥ずかしいし、なんの得にもならないし、アーチャーには迷惑なだけの……。
でも、アーチャーが、こうした方がいいって言った。
だから、消されても…………。
……………………たく、……ない…………。
わす……れ…………っく、な…………。
い……や、だ。
忘れたくない!
Back Side 25
「っ、が……っ、あ、う、ああぁっ!」
室内に籠るのは苦しげな声と魔術の赤い光だ。
アーチャーが投影し、丁寧に縛った革製のベルトは、士郎の手足首を容易に傷つけ、皮膚が擦り切れてしまっていた。
凛は士郎の声など聞こえていない様子で詠唱を続けている。
その部屋のドアの前で、アーチャーとセイバーは、大丈夫なのだろうか、と視線を交える。時折、士郎の苦悶の声がドア越しに聞こえている。二人とも動かないままだが、いつでもドアを蹴破れるように身体に力を籠めていた。
「アーチャー、あまり長引くようであれば――」
「そうだな。凛には出ていろと言われているが、安全のために様子を確認するのも我々サーヴァントの役目だ」
「そうですね」
あまりに酷い声が聞こえ続けるならば、士郎の身体がもたない。不測の事態に対し、セイバーとアーチャーは互いに自分たちの役割を確認しあった。
セイバーは凛を、アーチャーは士郎を。
それぞれのマスターの身の安全を確保することを第一に動くと、約束をしていたのだ。
ガタガタ、と室内から不規則な音が聞こえる。その音の主が誰なのかは容易に知れた。
――――士郎……。
知らず握りしめた拳は、いったい何に対しての憤りなのか。
アーチャーは記憶を消すなどという言葉を、簡単に吐いた己を今さらながら恥じた。
簡単なはずがない。
記憶を操作されることに苦痛が伴うことなど、容易にわかるはずだというのに、アーチャーはそういう身体の負担を一切失念していた。
ただただ士郎をどうにかしてやりたいという思いばかりが先に立ち、身体的なリスクに見て見ぬふりをしたようなものだ。
「……っくそ!」
こぼした悪態は、苦くてしようがない。
隣にセイバーがいるというのに、アーチャーは憚りもなく、心情を露にしている。
「アーチャー、大丈夫ですか?」
セイバーに心配されるほど己がおかしいのだろうと、どこか上の空で思った。
――――なぜ、私は……。
記憶を消そうなどと言ったのだろうか。
――――ただ、士郎に普通の生活を、と……。いや、あの頃の続きを、私は望んでいたのだ……っ!
突然奪われてしまった士郎との時間を取り戻したかったという本音に、アーチャーは今さらながら気づいた。それには守護者としての記憶が邪魔だったから、記憶を消せばいいと思い至ったのだ。
作品名:サヨナラのウラガワ 9 作家名:さやけ