サヨナラのウラガワ 9
――――気づいたからといって、もう施術ははじまった。今ごろどうにかなるものでも……。
『っ、――――ぁぐっ、う、ぐ……』
ドアの向こうから聞こえてくる士郎の苦悶の声に、ぐ、と歯を食いしばる。
――――いや、まだ、間に合うかもしれない!
一縷の望みをかけて、アーチャーはドアを押し開ける。
「凛、待っ、っ――」
部屋に踏み込んだ瞬間、どっと押し寄せたものに、思わず身構えた。
――――な、んだ?
思考がまとまらないまま、アーチャーは動けない。いったい何が起こっているのかと必死に状況を理解しようとする。そうして――――、
“忘れたくない!”
声だった。
いや、耳に届くものではないために、声と呼んでいいものかアーチャーには判断できない。
だが、それは、紛れもなく士郎の声だ。しかし、士郎は苦しげな呻き声を上げているばかりで、言葉というものを発しているわけではない。
アーチャーは、ベッドの上の士郎を凝視する。革のベルトはピンと張りつめ、士郎の四肢を戒めていた。それは、抵抗している姿以外の何ものでもない。
「っ……」
受け入れたじゃないか、とアーチャーは言い訳したい。士郎は記憶を消すことに同意した。それが最善だろうと受け入れていた。だというのに、
――――なん、だと?
士郎の声なき声は、忘れたくないと言ったのだ。
――――なぜ……?
今になって、どうしてそんな思念を己に飛ばしてくるのか。
どうすればいいのか。
アーチャーは途方に暮れてしまう。
――――いや、呆けている場合ではない!
士郎がそう思うのならば、施術は止めなければならない。
「凛! 待て! 士郎が――――、っく!」
凛の掌から赤い光が一際強く輝く。
「待て! 凛!」
術に集中するあまり、凛にはアーチャーの制止の声が届いていないのか、凛はためらうことなく施術を完成させていく。
――――待て! 待ってくれ! 士郎と話をっ!
己はなんということをしでかしたのか。
士郎の気持ちをきちんと訊きもせず、ただ苦しむ姿を見たくないからという手前勝手な感情で士郎の記憶を消そうなどと、そんな横暴は許されるはずがなかったのだ。
身体を硬直させて、瞠目したまま宙を見つめている士郎は、もう呻くこともなく、声すら発することができないようだ。
――――もう、手遅れだ……。
施術は完成されたのだとわかる。あとは最後の仕上げのようなもの。もう、士郎に聖杯戦争の記憶はない。今さら間違いに気づいたところで、もう記憶は失われてしまった。
ゆっくりと閉じていく瞼の奥で琥珀色が滲んでいる。その瞳には、もう二度と己が映ることはない。今までのように士郎の想いが籠められた視線は感じられることはないのだ……。
スパークして一瞬室内を白く染めた赤い光は収束していき、やがて室内は常夜灯が仄かな光で照らしているだけとなる。
「…………」
呆然と立ち尽くすアーチャーは、腕に触れた手に瞬く。
「ぁ……」
「アーチャー、大丈夫ですか? 突然、部屋に入ってしまったので、気を揉みましたが」
「あ、ああ、そう……だな……」
「アーチャー? どうしたの?」
凛が振り返って、首を傾げている。この様子では、凛もセイバーも先ほどの士郎の思念を聞いてはいないのだろう。
――――私だけに、聞こえたのか……。
マスターとサーヴァントだからだろうか、それとも、士郎がアーチャーにだけ思念を飛ばしたのか。
――――訊いたところでわからないだろう。もう、記憶は……。
拳を握り、視線を落とす。
後悔がアーチャーを蝕んでいる。もっと話すべきだった、と、もっと理解するべきだった、と……。
「アーチャー、これ、外して手当てしてあげて。ずいぶん抵抗したから、きっとケガしてると思うわ」
凛は士郎の四肢を戒めている革のベルトを指し、ふらふらと立ち上がる。
「凛、大丈夫ですか!」
セイバーがすかさず手を貸し、ありがとう、と凛はその手を素直に取った。
「ちょっと、疲れちゃった。先に休ませてもらうわね」
「アーチャー、それでは」
凛に肩を貸し、セイバーは部屋を出ていく。二人の後ろ姿を見送って、アーチャーはベッドに歩み寄った。
「士郎……」
そっと頬に触れれば、じっとりと汗ばんでいる。首筋も濡れているようだ。
「これでは風邪をひくな……」
アーチャーは救急箱とともにタオルと着替えを用意し、再び士郎の部屋へと戻った。
手足を戒めていた革のベルトを外し、汗に濡れた服を脱がし、士郎の身体を手早くタオルで拭っていく。先に手首と足首の手当てをするために、Tシャツと下着だけのままで、とりあえず上掛けをかけた。
両手首に包帯を巻き終え、左足首に軟膏を塗ってガーゼを貼ったところで呻き声のようなものが聞こえ、アーチャーは顔を上げる。
「士郎?」
呼んでみたが返事はない。手早く包帯を巻き、腰を浮かせて士郎の顔を確認する。
「目が覚め――」
「ぅ、ううっ……っう……」
「士郎、どうした!」
立ち上がり、士郎の肩を揺すってみたが瞼は閉じたままだ。
「うなされている、のか?」
手足の傷以外にケガをしているのかもしれない、と上掛けを剥いで士郎の身体をくまなく確認したが、どこにも傷らしきものはない。骨に異常があるのかと触診したが問題はないようだ。
であれば、凛の施術が原因だろうかとも疑ったが、凛は疲れ切っている。うなされているだけであるために、わざわざ凛を呼ぶのも気が引けた。それに、意識を取り戻して錯乱するわけでもないし、暴れる様子もない。
――――朝になってからでも大丈夫だろう。
アーチャーは残った右足首の手当てをし、包帯を巻く。ついで寝間着を士郎に着せようとして目を剥いた。
「なんだ、これは……」
赤い痣のようなものが士郎の皮膚を染めている。腕も脚もTシャツの下の腹や胸、そして顔や首にも赤い痕があった。
「いったい、なんだ」
確認のために部屋の明かりを点ける。
腕を取り、手を取り、その赤い痕を眺めてみるが、皮膚に何かの着色料のようなものが付いてるわけではない。どちらかといえば、皮膚に赤い痕が浮き上がってきた、というのが正しいかもしれない。
「……いったい、これは…………?」
結論は全く出ず、アーチャーがその痕を調べている間も士郎はうなされている。
士郎がうなされていることと、赤い痕。
気にはなるものの、何の手立ても、思い当たる節もない。
――――一応、凛の耳には入れておこう。
施術の影響かどうかもわからないが、少しでも気になる情報は共有しておくのがいい。何か事が起こってから相談をしようものなら、今度こそガンドの餌食だ。
士郎の身体をくまなく確認し、寝間着を着せ、上掛けをかける。部屋の明かりを消し、いまだ、うなされている士郎の枕元に腰を下ろしたアーチャーは、そっと赤銅色の髪を撫で梳いた。
眉根を寄せて、苦悶の色を濃くしている士郎を見ていれば、あの思念を思い返してしまう。
“忘れたくない!”
あれは、士郎の本当の想いが溢れたのだとアーチャーには思えた。
「お前は、何も言ってはくれないのだな……。いつも、いつも、私には本当のことを……」
作品名:サヨナラのウラガワ 9 作家名:さやけ