サヨナラのウラガワ 9
だから、アーチャーは後手に回ってしまう。いつも気づいたときには手遅れだ。
新都のマンションに連れて行かれたときも突然だった。五年前の別離も突然で、代わってあげられればいい、などと思われているとは、全く気づきもしなかった。
「恋人だというわりに、私をどこか敬遠していた。恋人であるというのに、私に何も望まなかった。それでいて、私が触れれば赤くなって、壊れるほどに鼓動を跳ねさせていたな、お前は……」
何もわからないままで終わってしまった、と思う。記憶が消えてしまっては、もう元の関係には戻れない。
士郎をなんら理解できないままで、恋人という関係は終わったのだ。これからはマスターとサーヴァントという関係でいなければならない。
「お前は、本当に……」
ひどい奴だ、とは口に出せず、アーチャーは唇を引き結んだ。
「士郎、お前は……どうして…………」
たくさんの疑問が胸の内でわだかまる。解けない謎を抱えたまま、この先ずっと士郎との時間を過ごさなければならないと思うと、ため息がこぼれる。
――――だからといって……。
士郎の傍にいられることがうれしくないわけではない。
――――お前の傍で……、おそらく無防備に私の傍にいるお前に……、私はどこまで平静を装っていられるだろう……。
赤い痕に染まった士郎の手をそっと握り、少し汗ばんだその手が唯一のよすがのような気がした。
これほどに大切だと思うものを、アーチャーは今までに見つけたことがない。いや、あったのかもしれないが、記憶というものの中には存在しない。もう二度と手放しはしないと、決意を固めさせてしまう士郎の存在が、一等大きいものだと感じているというのに、ただのマスターとサーヴァントとという関係でしかない。
――――恋人では、ない……。
ため息は苦いばかりで、この先の展望など、アーチャーには何も見えなかった。
翌朝、アーチャーは凛に士郎の身体に現れた赤い痣のような痕のことを話した。すぐに診てみる、と凛は言ったが、明け方にその痕は消えてしまったために診ることはできなかった。
昼になろうかという頃に目を覚ました士郎は、右も左もわからない様子で、見知らぬ部屋に凛がいること、自身が成長していること、ここがロンドンであることに一通り驚いていた。
その反応は、高校生の頃とまったく変わらず、凛とセイバーの苦笑いを誘っていた。
昼食を済ませ、凛は改めて一通りの出来事を士郎に話していた。もちろん、英霊エミヤのことは伏せている。
聖杯戦争というものがあり、紆余曲折の末、アーチャーと契約を果たし、その後もアーチャーを現界させ、高校卒業後は時計塔に入って魔術師としての力をつけた。そうして、ひょんな事故で記憶を失った、と――――。
なんの疑いもなく、士郎はこくこくと頷き、そうだったのか、世話になった、などと言って凛に何度目かの苦笑いを浮かべさせた。
現在は何をしているのかという質問には、放浪癖があり、ある程度の金銭を稼いでは世界を放浪している、と当たらずも遠からずな答えをアーチャーが返した。
それには、納得したように頷き、士郎は特に疑問を浮かべたようではなかった。
「こんなにうまくいっていいのかしら?」
凛は士郎に聞こえないよう、ぽつり、と呟き、首を捻りながら不安を口にしたが、今のところ問題はないために、うまくいったと認めざるを得ない。
「ほんっと、衛宮くんはこんなに素直なのに、どうしてアーチャーみたいになっちゃうのかしら。ねぇ?」
わざわざ台所まで来て放った凛の揶揄にアーチャーは、知らん、と不機嫌に答えるだけだった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
なんだか変な感じだ。
事故に遭って、五年くらいの間の記憶が消えてしまっているそうだ。
えーっと……、聖杯戦争、だっけ?
それに、魔術師って……。俺、強化の魔術しかできなかったのに。いや、強化の魔術だって、たいしてできていたわけじゃないのに……。
それに、学園の憧れの的だった遠坂とルームシェアする仲になってるなんて、……不思議だ。
あとは、サーヴァント、だったかな?
セイバーとアーチャー。
セイバーなんて物騒な名前だけど、華奢な女の子だ。反対にアーチャーはほんとに弓使いなのかって感じの体躯だ。
うーん……、よくわからない。
「それにしても……」
俺のサーヴァント・アーチャーはよく働く。働くと言っても、主に家事。今のところ、遠坂とセイバーが働きに出ていて、アーチャーが主夫みたいな立ち位置だ。俺はフリーターをしていたみたいで、今は無職っぽいし、なんだか、落ち着かないけど居候のような状態になっている。
だから、俺もできることはやろうと思うけど、どうしてもアーチャーとカブってしまう。掃除は手分けしてできるけど、洗濯とか料理とかは、やっぱりお互いの配慮なりなんなりが必要で……。
「あ! お前! 今日は、俺の番だって、決めただろ!」
「マスターがいつまでも寝ているのが悪い」
「い、いつまでも、って! まだ五時だぞ! お前、寝ないからって、勝手に――」
「ならば、私が動き出すよりも早くマスターが動けばいい」
「そ、そんなこと言ったって! これ以上早く起きるのは、ちょっと難しいっていうか……、うー、じゃ、じゃあ、洗濯してく――」
「ああ、もう洗濯機は回してある」
「っな! ぜ、絶対、わざとだろ! お前! 俺に何もさせないつもりか!」
「マスターはもう少し寝ていればいいのではないか? 無理をして起きることもない」
「い、いや、でも、」
「では、テーブルを拭いて食器を並べておけ」
「こ、この……っ! 命令するな!」
噛み付きながらも、俺はアーチャーの言う通り、食器類を並べるしかない。台所に先に立たれてしまっては、主導権を握れない。
くそ! 明日は絶対に俺が先に台所に立ってやる。
決意を固めながら、朝食を食べるための準備を整えた。
「はーいはい、朝っぱらから、ケンカしないのー」
朝っぱらから、アーチャーと口論になり、主に俺だけがブツブツ文句を言っていたから、遠坂は呆れながらそんなふうに俺たち(主に俺)を宥めている。
むすっとしながらアーチャーの作った朝食をおいしくいただいて…………だって、こいつのご飯は、めちゃくちゃ美味いから……、い、いや、味に気を取られていたらダメだぞ、俺。
「遠坂! なんとか言ってくれよ! 交代でご飯を作るって決めたのに、こいつ、いつも俺より早く台所に陣取るんだぞ!」
「いーじゃない。おいしいもの作ってくれるんだからー。衛宮くんも楽すればいいのよー」
遠坂は、大あくびをしながら、いまだにソファに身体を預けている。アーチャーの作ったホットサンドが冷めちゃうってのに。
「そ、そうなんだけど……、って、遠坂! 二度寝したら間に合わないんだろ? 早く食べないと、」
「うーん、五分だけー」
言いながら遠坂はクッションに顔を埋めてしまう。
「ああああ、ダメだって! 起きろ、遠坂!」
慌ててソファに駆け寄って、遠坂の腕を引っ張って立たせる。ダイニングテーブルの方へ連れていけば、渋々だけどイスに腰を下ろした。
作品名:サヨナラのウラガワ 9 作家名:さやけ