サヨナラのウラガワ 10
もう二度と、名を呼んだ私に士郎が応えることはない。マスターとサーヴァントである我々は、名前を呼び交わすような関係ではないのだから……。
Back Side 26
アーチャーとともに士郎は日本に戻り、自宅に帰ってきた。記憶の消去から三週間以上が経過しており、凛からは、士郎の状態は諸々心配な要素を含んでいるものの、一応の及第点をクリアしているので、帰国しても大丈夫だというお墨付きをいただいている。
心配なのはアーチャーよねぇ、と意味深な発言をした凛は、何かしらの条件や規制もせず、アーチャーに士郎を託した。
“自分の胸に手を当てて、じっくり見つめ直しなさいね”
空港まで見送ってくれた凛は、搭乗するアーチャーにそんな言葉を送り、その意味するところを測りかねているアーチャーの頭を撫でて笑っていた。
――――いったい、なんだというのか……。
帰国の途にある間、アーチャーは始終むっとして思案に耽っていたが、士郎との道中が楽しくないはずがなく、そのご機嫌は右肩上がりで簡単に回復していた。
おかげで士郎はやきもきすることになったが、最終的にはアーチャーの機嫌が良くなり、それなりにフライトを楽しめたようだった。
「うわー、けっこうホコリがあるなー」
ようやく衛宮邸に着き、閉めきっていた雨戸を開ければ、差し込む光に舞う埃がキラキラと反射している。
「何年ぶりになるんだ?」
「二年か、そこらだな」
「ふーん」
アーチャーの答えに相槌を打った士郎は、とにかく掃除からだな、と清掃道具を取りに向かった。
「無事、帰ってきたな……」
アーチャーは縁側から庭を眺め、ふ、と自嘲した。
ここで士郎と過ごした時間は、そう長いものではなかったが、互いに理解し合おうと思えばできる距離と時間があった。
それをおろそかにしたのはアーチャーだ。いや、士郎もそうだったかもしれない。離れることなど想定していなかったために、あんな突然の別離に何も対処ができなかった。
――――供給をして、セックスをして、キスをして、恋人となって、我々は安心しきっていたのだ。このまま長い時間を二人で費すのだと……。
だが、その時間は突然終わり、今、士郎との関係は全く別のものになってしまっている。
マスターとサーヴァント。近いようで、一定の距離感が保たれた関係。触れることなど一切ない関係。
聖杯戦争は終わり、戦う必要のないサーヴァントなど、いったいどんな需要があるのだろうか、とアーチャーは嗤えてきてしまう。
――――私は、もう……。
座に還るべきなのかもしれない、と思いはじめている。
士郎のサーヴァントとして現界するには、もう意味も意義も意思も薄れに薄れている。
「もう……」
瞼を下ろしかけて、
「アーチャー!」
ぐ、と力強く腕を掴まれ、数度瞬く。
「マス、ター?」
驚いたまま振り向けば、士郎は青くなってアーチャーの腕を掴んでいた。
「どうした? マスター、何か――」
「ど、どうしたんだ!」
「は? 私が訊いているのだが?」
「あ……、え? な、なんか、えっと……」
歯切れの悪い士郎に小首を傾げ、アーチャーは士郎の言葉を待ってみる。
「なんか……、消えそうって、いうか……」
うまく言えない、と士郎は俯いてしまうが、アーチャーの腕をいまだに強く握っている。
こんなふうに引き留められたことを思い出す。士郎がアーチャーを掴むときは、往々にして強かったように思う。ということは、士郎はいつも己を引き留めようとしていたのか、などと妄想めいたことを思う。
「……マスター、掃除をするのではなかったのか?」
「え……? あ!」
士郎が持っていたであろう雑巾は縁側に放置されている。それを振り返り、士郎はバツ悪そうな表情を浮かべるが、アーチャーの腕を離そうとしない。
「マスター、離し――」
「き、消えない、か?」
アーチャーは目を瞠った。以前の士郎ならばいざ知らず、今、魔術師としてそれなりに成長した士郎の魔力は、現界するには十分である。凛と比べれば少ないというだけで、上級の魔術師である凛を士郎の引き合いに出すのは少々気の毒だろう。
だというのに、士郎はアーチャーに消えないかと訊いた。
「マスター、何か、見たのか?」
もしや、また、守護者の縛りが強く表れて、アーチャーの気づかぬうちに、座に引き戻される力が働いているのではないかと疑った。
「い、いや、何か見たっていうのじゃ、なくて……、ただ、アーチャーが消えそうだって……」
「消える?」
先ほどから、士郎はアーチャーが消えそうだと、しきりに不安になっているようだ。
「マスター、なぜ、そう思う」
「え? なぜって…………、あれ? なんでだろ? 理由とか、そういうのは、思い浮かばないんだけどさ、なんか、止めなきゃって……」
「私が座に還ると思ったのか?」
「座……? いや、そんなはっきりしたことじゃないんだけど……」
士郎自身も明確な理由に思い当たらないようで、困り果てている。が、その手はアーチャーの腕をいまだ握ったままだ。
「なんでだろう? アーチャーを還らせたらダメだって、思ったんだ……」
首を捻りながら、士郎自身も不可解さを拭えないまま、今感じたことを士郎は率直に話している。
「還らせては、だめ、とは……」
士郎の言葉に不可解さを覚えたアーチャーは、不意にひらめいてしまった。
「マスター、私が座に還りたいと言えば、どうする?」
「え? アーチャー、還りたいのか?」
まるで、そんな考えなど起こさないだろうと言いたげな士郎にアーチャーは苦笑をこぼした。
「いや、例えばの話だ。私が座に還らせてくれと言えば、マスターはどうするのかと、訊いてみたくなった」
「あ、そ、そういうことか……」
明らかにほっとした顔の士郎にアーチャーは何やらむず痒くなってくる。もしかすると、と期待をしてしまいそうになる。
――――士郎の記憶は失われている。期待などしたところで意味はないというのに……。
自嘲を禁じ得ず、アーチャーは視線を落とした。
「……えっと、還りたいって言うなら、俺は止めない」
予想していた答えだというのに、アーチャーは歯を食いしばらなければならない。
ただのマスターとサーヴァントという関係である今の士郎に言われても、どうということはないはずの結果だった。恋人などという関係ではないのだから、どこへでも行けと言われたところで悲嘆に暮れることはない。
だが、アーチャーはショックを受けていた。たとえ記憶がなくても還らないでくれと言ってほしかったと思う。
「だって、止められないだろ?」
「止められ……?」
「うん。俺は還ってほしくないけど、アーチャーにはアーチャーの事情とかがあるだろうし、無理強いはできないよ」
気遣いでもなく、いい子ぶっているのでもなく、士郎は真っ正直にそう言った。そんなつもりで言ったのではないのかもしれないが、アーチャーのことを第一に考えている、と言われている気がする。
飾らない言葉が、胸に刺さるようだった。
作品名:サヨナラのウラガワ 10 作家名:さやけ