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サヨナラのウラガワ 10

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 今、目の前にいる士郎には、恋人であったときの記憶などない。聖杯戦争も、古城での一騎討ちも知らないはずだ。士郎からすれば、たった二十日ほど一緒に生活をしていただけの相手である。それでも士郎は、アーチャーに還ってほしくないと思う、と言うのだ。
 もやついていた気持ちが霧散する。今、庭を照らす朝日を浴びたように清々しい気分になる。
「……そうか」
 士郎の言葉にも自身の単純さにも驚きながら、どうにか返答をすれば、
「なあ、ほんとに、還らないか? 大丈夫か?」
 士郎はまだ不安そうにして確認を取ってくる。
「ああ。こんなガキみたいなマスターを放ってはおけないからな」
 うれしさを軽口で誤魔化し、アーチャーは鼻持ちならない顔でニヤつく。
「む。ガキってなんだよ!」
「そうやって、すぐに怒るところがガキなのだ」
 肩を竦めるアーチャーに、士郎はますますおかんむりだ。だいたいお前は、と喚きはじめた士郎に、
「掃除をするのだろう。さっさとはじめるぞ」
「わ、わかってるよ!」
 縁側に放置された雑巾を拾い、アーチャーはまだブツブツと文句を垂れて、ぶすくれている士郎の頭を荒く撫でる。
「安心しろ。勝手に消えたりはしない」
「……え?」
 呆けたような顔でこちらを見る士郎と目が合った。
「何も伝えてもらえずに残される者の気持ちは、わからなくもないからな。したがって私が座に還るときはマスターの許可を取る」
「ほ、本当か?」
「ああ、本当だ」
「はぁー、よかったー」
 安堵の声を吐く士郎に頬を緩め、アーチャーは今度こそ掃除に取りかかった。



◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆

 まさか、還ってほしくない、と言われるとはな……。
 それを、素直に喜んでいる私も、たいがいだが……。
 思わず自分自身にため息をこぼしてしまう。だが、うれしいものはうれしいのだ、仕方がない。
 一日中、衛宮邸の掃除をして、くたくたになった士郎は風呂から出るとすぐに布団に潜り込んだ。
 日中の疲れで今夜はうなされることもないだろうとタカを括っていたのだが、身体が疲れて熟睡しているようでも士郎はうなされている。
 日本に帰る前に士郎を凛に診せ、一応医者にもかかった。睡眠不足がたたっている、という診断だったが、その原因である睡眠不足が解消不可能なために、いまだに士郎は日々寝不足のまま過ごしている。
 こればかりは凛にもどうすることもできないし、症状が落ち着くのを待つしかないのかもしれない。それまで士郎がもつかどうか、だが……。
「ぅ……ぅう…………」
 深夜を幾分か過ぎた今は小康状態のようで、呼吸は正常に近い。この、悪夢だかなんだかがおさまれば、汗を拭ってやらなければならないため、いつも通りタオルを数枚用意してきている。
「なかなかに厄介なものだな、守護者の記憶というものは……」
 汗で額に貼りついた赤銅色の髪をそっと摘んで除けてやれば、額に赤い痕が見える。本当になんの痕だか不明だが、なんとなく見覚えがあるもののような気がした。
「…………ん? ……これは、もしや、……銃創、か?」
 額の真ん中あたりと、こめかみのあたりに赤い痕がある。どちらも円形になっているようだ。
 “何度も殺された”
 はっとする。
 士郎が語った守護者の仕事は、何度も殺され、そして殺したというものだった。
「では、これはすべて、傷痕……なのか?」
 半信半疑で呟き、士郎の片腕をそっと取る。袖を捲り上げ、手の先から肘のあたりまでを、注意深く確認してみた。
 赤い痕がいくつもある。多くは筋状のものだが、指の第一関節の付近から爪の先までは全体的に赤く、爪の部分ももちろん赤い。指の付け根は指輪のように赤い線がぐるりと一周している。掌と甲の同じ場所に菱形のような痕がある。それに、手首のあたりにも一周する線がある。
「これは……」
 傷痕だとわかれば、すべて合点がいく。何度も殺された守護者。その証なのだ、と。
「そして、その数は…………」
 士郎の身体中の赤い痕を思い出す。
 尋常ではない。隙間の方が少ないほどに、その数は……。
 愕然とした。
 士郎の手を強く握ってしまいそうになり、慌てて放す。ぽす、と力なく布団の上に落ちた腕に、嫌な光景がダブって脂汗をかく。
「なんて……ことだ…………っ」
 憤りを吐き、士郎の手を再び握ってうずくまってしまう。目の前にある士郎の手には赤い痕が浮かび上がっている。
 これは……、指先を潰された痕、爪を剥がされた痕、指を切り落とされた痕、手を貫かれた痕、手首を切られた痕……。
 そして、額とこめかみの円形のものは銃創。それから、瞼を縦に走る痕もある。首を切られた痕もある。どれもこれも、士郎が守護者として負った傷痕。
「この傷痕に、士郎は苛まれているのか……?」
 身体に負った傷だったのかもしれないが、今はその魂に刻まれた傷痕だ。
「こんなもの、どうすれば……」
 癒しようがない。身体であれば治療ができる。心の傷も時間をかけて、完全ではないかもしれないが快方に向かわせることができる。だが、魂に刻まれてしまった傷は、いったいどうすればいいのか。
 本人でさえ気づいていない傷を、どうやって治す?
 傷があるとも気づいていない傷など、癒す以前の問題だ。
 触れられない傷に、認識すらされていない傷に、私はどう立ち向かえばいいのだ。
「なぜ……」
 こんなことになってしまったのか。
 どうしてあのとき士郎は、代わってやる、などと言ったのか。あんなことを言わなければ、このような状況に陥るはずなどなかったというのに。
 口惜しさが拭えない。私は、あの頃から、なんら士郎を理解できていない。その表情や反応から、私への好意は感じられていた。理想に対する憧れの延長上の感情であったとしても、私を好いているということは実感できていた。
 だが、私が何度恋人だと言っても、士郎はいつまでも私が触れることに慣れず、セックスはしていても恋人らしく過ごすことはなかった。
 あれは、どういうことだったのだ……。
「ああ、そうか……」
 不意に一つの可能性に思い至った。
 今朝、士郎が言っていたこと、そのままなのかもしれない、と。
 士郎は、私が還りたいと言えば止められない、と言った。還ってほしくはないけれども、無理強いはできないから、と。
 以前の士郎も今の士郎も同じなのではないのだろうか。以前から、私が還りたいと言えば、士郎はすぐにでも契約を解除したのかもしれない。たとえ、還したくない、と思っていても。
 士郎が、私が消えてしまわないかと不安になったのは、いまだにその気持ちが残っているからだろう。
 時間が経てば薄れていくのかもしれないが、今の士郎はまだ、記憶が消えて二十日ほどだ。以前の気持ちをどこかで留めているのかもしれない。
 だとすれば、以前と同じではないかもしれないが、それなりにマスターとサーヴァント、という主従関係だけではないものが築けるかもしれない。
 思い出してほしい、とは言えない。あまりにも士郎にとっては苦しい記憶であるだろうから。だが、感情だけは取り戻してもらいたい。私への気持ちだけは、思い出してほしいと思う。
「我が儘、だろうか……?」