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サヨナラのウラガワ 10

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 赤銅色の髪をかき上げ、しっとりと汗ばんだ額に唇を寄せる。
 眉間に力を籠め、小さく呻く士郎の苦しさが少しでも和らぐようにと、願いながら口づけた。



Back Side 27

 衛宮邸に戻った士郎は、それなりに蓄えがあるにもかかわらず、一日中家にいるのは精神的に無理だと言って、郊外にできた大型ホームセンターでバイトをはじめた。アーチャーは家事全般を引き受けることにして、恙無く共同生活を送っている。
 ただ、士郎は毎夜うなされる症状が続いているため、常に睡眠不足である。したがって、バイトは週三日ほどの連続しないシフトが限度であり、あまり無理ができない状態である。
 アーチャーとしてはバイトなどせず、自宅にいてほしいのだが、いかんせん、士郎はまだ二十代前半の若者だ。その性格からしても、家でじっとしていられるわけがない。
 アーチャーと四六時中顔を合わせているのがやりにくい、ということでもなく、ただただ、働かざる者食うべからずの気質で士郎はバイトに勤しんでいる。
「せめて原付にすればいいのではないか?」
 士郎はバイト先へ自転車通勤だ。片道四十分近くかかるので、そこそこの距離がある。
「まあ、その方が楽なんだけどさ。……ほら、俺、覚えてないから、乗り方」
 確かに記憶にはないだろう。何しろ運転免許証を取得したのはアーチャーが士郎として過ごしていたときのことだ。聖杯戦争からの記憶云々ということではなく、もともと士郎には経験がないことなのだ。
「……少し練習すれば、どうとでもなるだろう」
「うーん……、そうなんだけどさ。俺が事故してケガするのは自業自得だからいいんだけど、誰かにケガをさせてしまう可能性もあるからさ……」
「世の中のドライバーが皆そのような考えであれば、交通事故は起きないだろうな」
「ははは、そうだな」
 困ったように笑った士郎に、アーチャーの胸は小さく跳ねた。
 ――――記憶を消してからは、よく笑う……。
 心からの笑顔というものではないが、明らかに表情が以前の士郎に比べれば多いとアーチャーは感じている。
 守護者を経てこの世界に戻ってきた士郎は、元々よりも、さらに表情を失っていた。これは笑っているのか? とアーチャーが疑いたくなるようなものでしかなかった。
 おそらく、これが士郎の本来の姿なのだろうとわかっていながら、アーチャーは何やら心苦しくなる。
 ――――私と恋人であったときですら、士郎は私に本心は見せなかった、ということなのだろう……。
 アーチャーに対する信用や信頼、そういったものがないということではないのだろうが、士郎はすべてを己に曝け出してはいなかったのだ、と気づいてしまった。
 ますます落ち込みそうになる気分を無理やり上げて、アーチャーは夕食をカウンターに置いた。それを居間の方から座卓へ士郎が運んでいく。衛宮邸で再び生活するようになってから、なんとなくできた決まりのような動きだ。
 アーチャーが台所に立つことが多いため、台所を占領するな、と士郎は文句を言いつつもアーチャーに台所のメインの場所を提供している。それに、バイトから帰ってきた士郎は、やはり疲れているので、どうしても居間に居がちだ。
「問題ないか?」
「へ? 何が?」
 配膳を終えた士郎に、アーチャーが台所から出てきて訊いたのだが、士郎はなんのことだかわからないようで、首を傾げている。
「身体は問題ないか、と訊いている」
「ああ、うん。なんともない」
 言いながら腰を下ろした士郎を疑いの目で見ながら、アーチャーも腰を下ろす。
 士郎は以前から座っていた定位置にいるのだが、アーチャーは対面ではなく、台所を背にして角を挟んだ士郎の隣に座っている。そこが台所に近く動きやすいというのが表向きの理由で、実のところは、不自然ではなく士郎の近くにいられるからというのが理由だ。そんな内情をお首にも出さず、真横に座るのは気が引けるが、ここなら問題ない、と帰宅した日からアーチャーはそこに陣取っている。
「少し顔色が悪い」
「あー……、うん、今日、休んでる人がいて。土曜だったし、忙しかったから……」
 バレてしまったか、とバツ悪そうに、士郎は頭をかく。
「まったく……、なんのために週三日でセーブしているのだか……。他のバイトの分まで働いたのでは、意味がないだろう」
「わかってるけどさ……」
 仕方がないだろ、と士郎はぶすくれている。ままならない身体で働くのは楽ではないだろうに、士郎は自分ではなくアーチャーが働くことには反対した。英霊にバイトなどさせられないと言って。なんの意地だと口論になったが、士郎は頑として引き下がらなかった。
 エミヤシロウの頑なさを重々承知しているアーチャーは折れるしかなく、週に三日以内で連日シフトを避けろ、という条件を飲ませることでアーチャーが引き下がったのだ。
「いつまでもむくれていないで、しっかり食べて早く休め」
 意地の張り合いになると、エミヤシロウどうしでは終わりがなくなってしまうため、アーチャーは今回も引き下がる。そして――――、
「わ!」
 ひた、と頬に触れたアーチャーの手に、士郎は肩を跳ねさせてこちらを見た。
 目が合い、互いにしばし静止する。
 思わず手を伸ばしてしまったアーチャーは引っ込みのつかない手をどうするかと考えた。
 かたや士郎は目を瞠ったままで、かっ、と熱くなってしまった頬に戸惑う。
「…………」
「…………」
 互いに無言。
 互いに動けない。
 呼吸すらままならず、互いにうろたえたまま、どうすることもできないでいる。
 先に動くことができたのはアーチャーの方だ。
 士郎の頬を包むように触れた片手を少しずらし、ぎゅ、と存外に柔い肉をつまんだ。
「っで!」
「さあ、食え」
「う、わ、わかってる!」
 士郎の頬を摘んでいた手をすっと引き、アーチャーは顔色一つ変えず食事をはじめる。それに倣い、士郎もたいして痛くもない頬をさすりながら、いただきます、と呟いてから食べはじめた。
 夕方のニュース番組が静かな居間で垂れ流されていたが、二人の耳には全く届いていなかった。



「うーん……」
 士郎は帰宅途中の信号待ちの最中、ぼんやりと茜空を見上げる。
「なん、か……」
 ここのところ、ずっと考えてしまうのは、ともに暮らしているアーチャーのことだ。
 英霊であり士郎のサーヴァント。それ以外の関係など思い浮かばない。
 ――――スキンシップっていうか、触ってくることが多いような……。
 青信号になり、自転車のペダルを漕ぎ、あと少しになった家までの距離を消化するように速度を上げる。
 この疑問はずっと引っかかっていたことだった。ロンドンにいる頃からなんとなく感じていたものなのだが、日本に帰ってきてからは、けっこう気になるくらいになっている。
 “気になるようになった”というと、アーチャーの接触が増えたように思うが、そういうわけではない。アーチャーの接触はロンドンにいた頃と変わっていないのだ。ただ、士郎が意識する回数が増えたというだけ。
 アーチャーの態度や接触は変わらないが、気にしてしまうことが多くなったため、士郎は“接触が多い”と感じるようになっている。