サヨナラのウラガワ 10
ぱちん、と何かが弾けたような感じを覚えた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
眠れないと言って縁側に出てきた士郎は、消えたはずの記憶に苛まれているのだろうか。
うなされて眠れないこともさることながら、もしかすると、記憶の断片でも残っているのだろうか。
凛に確認してみた方がいいのかもしれない。彼女の施術は完璧だったのだろうが、時間が経てば綻びが生じるようなことがあるのかどうか。
だが、そんなことを訊けば、目くじら立てて怒りそうだな……。
ガンドを覚悟で訊ねてみようかと思案していると、士郎が小さな呻き声を上げていることに気づく。
そっと髪を撫で梳き、じっとりと汗ばんでくる頬を撫でる。
衛宮邸に帰ってからというもの、私は常に士郎に添い寝をしている。もちろん、士郎の預かり知らぬことだ。
これほどうなされていても、士郎は夜中に目を覚ますことがない。今夜のように眠れないことはあるが、一度眠ってしまえば、朝になるまでは目覚めないのだ。
したがって、私は毎夜、部屋の前ではなく少し離れた縁側で、士郎が眠るまで待機している。
先ほどは部屋から出てきたので驚いた。もしや、邪魔だと言いに来たのかと少し焦ったが、そういうことではなかったようだ。
眠れないと言いながら、私の膝枕ですんなり眠ってしまうとは、お前は、どこまで私を翻弄してくれるのだ……。
「まったく……、性質(たち)が悪いな、お前は……」
悪態をついたところで、眠る相手には聞こえない。苦笑をこぼして、柔らかい赤銅色の髪を撫でながら瞼を下ろす。
少しでも眠れるように、少しでも苦しさが失せるようにと願いながら……。
翌朝、朝と呼ぶにはずいぶん遅い時間だが、士郎は起床したようだ。常に睡眠不足の身では起きるのすら億劫だろうに、休みの日でも昼になる前には必ず起きてくる。
重そうな足取りが洗面所へ向かい、やがて居間に向かってきた。
「今日も調子は良くないようだ……。まあ、良い日などないのだろうがな」
士郎が居間に入る前に心構えをして備える。程なくして居間に入ってきた士郎は、昨夜、士郎の身体を包んだ聖骸布を手にしていた。
「マスター?」
なんだ?
様子が変だ。いや、今だけではない、昨夜もどこか変だった。よくよく考えてみれば、ここのところ、何か引っかかる感じがしていた。
これは、何かの前兆なのだろうか?
代わってやる、と言ったときのように、士郎はまた突拍子もないことを言ってくるのだろうか?
聖骸布を見せて礼を言うその顔色は、本当に、今までで一番悪い。
カウンターを回って士郎の前に立てば、私を見上げている。
ああ、こんなに無防備に……。
自制しなければと思えば思うほど、暴走しそうになる。後退ろうとした士郎の腕を捕まえた。
揺れる琥珀色の瞳が私を見つめている。そこに映るのは、お前の恋人なのか従者なのか、どちらだ。
「ぁー……ちゃ……」
掠れた声が聞こえる。
なぜ、そんな声を?
それに、どうして頬が赤い?
何度も生唾を飲むのはどうしてだ?
どうしたのか、と訊こうとすれば、私が近くにいると心臓が誤作動を起こすとかなんとか……。
なんだ、それは。
いったいどういう現象だ。
運動後のように激しく動く心臓だと?
それは、いわゆる、ドキドキというやつではないのか?
士郎の緊張が伝わってくる。胸元を押さえて目を伏せたその仕草に、溜まりに溜まった熱が膨れ上がっていく。
これは、だめだ。
止まらなければだめだ。
士郎はもう、違うのだ。
恋人ではないのだ!
だが、これは、明らかに、“そういうこと”だろうっ?
「ごめん、なんでだか、身体がおかしくなるんだ。だから、近いのは、」
士郎が息を飲んだのがわかった。硬直した身体からは熱いくらいの体温を感じる。
聖骸布が畳に落ちた音がする。いや、そんなことどうでもいい。もう必要がないのだから、消してしまえばいい。
音もなく消えた聖骸布を目の端に捉えたまま、抱きしめた身体の熱に酔いそうになる。
「士郎」
もう、自分を抑えられなかった。
Back Side 28
この密談がなされたのは少し前、士郎の記憶が失われる直前のことである。
士郎の記憶を消すにあたり、凛は注意点と一つの提案をした。
「ねえ、衛宮くん。一つ、逃げ道を作っておかない?」
「逃げ道?」
その提案に首を傾げた士郎は、不思議そうにベッドの側に立つ凛を見上げる。
まだベッドに縛りつけられる前のことで、士郎はベッドに腰を下ろし、凛は窓際の机と揃いの椅子をベッドの枕元に持ってきて、士郎を見下ろしていた。
「逃げ道、って言うと聞こえが悪いかもしれないけれど……、きっかけになる状態を作っておいて、記憶が戻るようにするの」
「でも……」
それはアーチャーが望んだことに反する、と士郎が言えば、凛は肩を竦める。
「アーチャーは少し横暴だと思うわ。いくら衛宮くんのことを考えているからといっても、記憶を消すなんて、少しやりすぎじゃないかしら?」
「…………アーチャーは、きっと、俺のこと考えてくれて、」
「それは、大きなお世話だと思わない?」
「え……?」
凛も乗り気であったのでは、と士郎は首を傾ける。
「衛宮くんがどんなに体調不良に陥ろうとも、衛宮くんがそれを克服していけばいい話だと思うのよ、私は。だっていうのにアーチャーは、その可能性さえ摘み取ろうとしているように思えるわ」
それは、士郎の記憶を想いごと消してしまいたい所以だろう、と士郎は思うが、口には出さない。
「衛宮くんは、それでいいの? アーチャーが忘れろと言うからって、従うことはないんじゃない? あなたは忘れたいの?」
答えにくい質問だ、とは言わず、士郎は視線を落とす。
――――そんなわけ、ない。
忘れたいわけがない。士郎にとってアーチャーへの想いは、何より大切なものだ。たとえ恋人というカタチに成就しなかったとしても、アーチャーを想っていた時間は士郎の胸に確かな熱を灯している。溢れる想いに手を焼き、胸の痛みに辛くなることもあったが、それでも忘れ去りたいとは思わない。
苦い思い出ではあるが、それも士郎をカタチづくる感情なのだ。失っていいものではないと思う。
けれども、アーチャーは消した方がいいと言う。アーチャーにとって士郎の想いは邪魔でしかないのだろう。いとも簡単に消してしまえばいいという結論に至ったのだから。もっと端的に言えば、消し去ってしまいたい過去ということなのかもしれない。
――――俺と過ごした時間なんて、アーチャーにとっては、なかったことにしたい過去なんだろう……。
どうしようとも報われない一方通行の想いは、もう手放すことに決めている。アーチャーを困らせることのないように、消してしまおうと士郎は心に決めたのだ。
「いいんだ、遠坂。アーチャーの言う通りだからさ。このままじゃ日常生活もできなくて困るんだ。頼むよ、ひと思いにやってくれ」
「ひと思いって……」
呆れたように肩を竦めた凛は、大きなため息を隠さずにこぼした。
「悪いな、遠坂。嫌な役をやらせてしまうよな」
作品名:サヨナラのウラガワ 10 作家名:さやけ